い、急がでもよき足わざと早めながら、後《うしろ》見られぬ眼《め》を恨《うら》みし別離《わかれ》の様まで胸に浮《うか》びて切《せつ》なく、娘、ゆるしてくれ、今までそなたに苦労させたは我《わが》誤り、もう是からは花も売《うら》せぬ、襤褸《つづれ》も着せぬ、荒き風を其《その》身体《からだ》にもあてさせぬ、定めしおれの所業《しわざ》をば不審もして居たろうがまあ聞け、手前の母に別れてから二三日の間実は張り詰《つめ》た心も恋には緩《ゆる》んで、夜深《よふか》に一人月を詠《なが》めては人しらぬ露|窄《せま》き袖《そで》にあまる陣頭の淋《さび》しさ、又は総軍の鹿島立《かしまだち》に馬蹄《ばてい》の音高く朝霧を蹴《け》って勇ましく進むにも刀の鐺《こじり》引《ひ》かるゝように心たゆたいしが、一封の手簡《てがみ》書く間もなきいそがしき中、次第に去る者の疎《うと》くなりしも情合《じょうあい》の薄いからではなし、軍事の烈《はげ》しさ江戸に乗り込んで足溜《あしだま》りもせず、奥州《おうしゅう》まで直押《ひたおし》に推す程の勢《いきおい》、自然と焔硝《えんしょう》の煙に馴《なれ》ては白粉《おしろい》の薫《かお》り思い出《いだ》さず喇叭《らっぱ》の響に夢を破れば吾妹子《わぎもこ》が寝くたれ髪の婀娜《あだ》めくも眼前《めさき》にちらつく暇《いとま》なく、恋も命も共に忘れて敗軍の無念には励《はげ》み、凱歌《かちどき》の鋭気には乗じ、明《あけ》ても暮《くれ》ても肘《ひじ》を擦《さす》り肝《きも》を焦がし、饑《うえ》ては敵の肉に食《くら》い、渇しては敵の血を飲まんとするまで修羅《しゅら》の巷《ちまた》に阿修羅《あしゅら》となって働けば、功名|一《ひ》トつあらわれ二ツあらわれて総督の御覚《おんおぼ》えめでたく追々《おいおい》の出世、一方の指揮となれば其任|愈《いよいよ》重く、必死に勤めけるが仕合《しあわせ》に弾丸《たま》をも受けず皆々|凱陣《がいじん》の暁、其方《そのほう》器量学問見所あり、何某《なにがし》大使に従って外国に行き何々の制度|能々《よくよく》取調べ帰朝せば重く挙《あげ》用《もちい》らるべしとの事、室香に約束は違《たが》えど大丈夫青雲の志|此時《このとき》伸《のぶ》べしと殊に血気の雀躍《こおどり》して喜び、米国より欧州に前後七年の長逗留《ながとうりゅう》、アヽ今頃《いまごろ》は如何《どう》して居
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