ゆえん》は、即ち「時代」により「処」によりて「人の胸中の人物」が生れたり活きたり死んだりする所以で、人の胸中の人物もあたかも実の人であるかの如くであるのであります。馬琴時代の「人の胸中の人物」は、紫式部時代の「人の胸中の人物」とは全然別なのでありまして、そして即ち馬琴時代にはその当時の人々の胸中に活きて居ったのであります。それを捉えて馬琴は描写したのであります。即ち馬琴の書いた第一種類の人物は当時の実世界には居らぬこと勿論であるが、当時の実社会の人々の胸中に居たところの人物なのであって、他の時代や他の土地の人々の胸中の人物を描いたのでは無い。ですから決して当時の実社会と没交渉や無関係な訳では無くて、そして、それであったればこそ、当時の実社会の人間を沢山に吸引して読者としたのであるのです。
 馬琴時代を歴史の眼を仮《か》りて観察しますれば、儒教即ち孔孟の教えは社会に大勢力を持って居りましたのです。で、八犬士でも為朝でも朝比奈でも皆儒教の色を帯びて居ります。仏教の三世因果《さんぜいんが》の教えも社会に深く浸潤して居りました。で、八犬士でも為朝でも朝比奈でも因縁因果の法を信じて居ります。神仙
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