とこそ日比は思ひ設け居たれ、別れたてまつりし時は今生に御言葉を玉はらんことも復有るまじと思ひたりしに、夢路にも似たる今宵の逢瀬、幾年《いくとせ》の心あつかひも聊か本意《ほい》ある心地して嬉しくこそ、と細※[#二の字点、1−2−22]《こま/\》と述ぶ。折から灯籠の中の灯《ひ》の、香油は今や尽きに尽きて、やがて熄《き》ゆべき一[#(ト)]明り、ぱつと光を発すれば、朧気ながら互に見る雑彩《いろ》無き仏衣《ぶつえ》に裹《つゝ》まれて蕭然《せうぜん》として坐せる姿、修行に窶《やつ》れ老いたる面ざし、有りし花やかさは影も無し。
 これが徃時《むかし》の、妻か、夫か、心根可愛や、懐かしやと、我を忘れて近寄る時、忽然《たちまち》ふつと灯は滅して一念|未生《みしやう》の元の闇に還れば、西行坐を正うして、能くこそ思ひ切り玉ひたれ、入道の縁は無量にして順逆正傍《じゆんぎやくしやうばう》のいろ/\あれど、たゞ徃生を遂ぐるを尊ぶ、徃時《むかし》は世間の契を籠め今は出世間の交りを結ぶ、御身は我がための菩提の善友、浄土の同行なり悦ばしや、たゞし然《さ》までに浮世をば思ひ切りたる身としては、懐旧の情はさることながら余りに涙の遣る瀬無くて、我を恨むかとも見えし故、先刻《さき》のやうには云ひつるなり、既に世の塵に立交らで法の門《かど》に足踏しぬる上は、然ばかり心を悩ますべき事も実《まこと》は無き筈ならずや、と最《いと》物優しく尋ね問ふ。
 慰められては又更に涙脆きも女の習ひ、御疑ひ誠に其|理由《ゆゑ》あり、もとより御恨めしう思ひまゐらする節もなし、御懐しうは覚え侍れど、それに然《さ》ばかりは泣くべくも無し、御声を聞きまゐらすると斉しく、胸に湛へに湛へし涙の一時に迸り出でしがため御疑を得たりしなり、其|所以《いはれ》は他ならぬ娘の上、深く御仏の教に達して宿命《しゆくみやう》業報を知るほどならば、是《こ》も亦煩ひとするに足らずと悟りてもあるべけれど然は成らで、ほと/\頭の髪の燃え胸の血の凍るやうに明暮悩むを、君は心強くましますとも何と聞き玉ふらん、聞き玉へ、娘は九条の叔母が許《もと》に、養ひ娘といふことにて叔母の望むまゝに与へしが、叔母には真《まこと》の娘もあり、母の口よりは如何なれど年齢こそ互に同じほどなれ、眉目容姿《みめかたち》より手書き文読む事に至るまで、甚《いた》く我が娘は叔母の娘に勝りたれば、叔母も日頃は養ひ娘の賢き可愛《いとし》さと、生《うみ》の女《むすめ》の自然《おのづから》なる可愛《いとし》さとに孰れ優り劣り無く育てけるが、今年は二人ともに十六になりぬ、髪の艶、肌の光り、人の※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2−5−68]《そね》み心を惹くほどに我子は美しければ、叔母も生《おふ》したてたるを自《おの》が誇りにして、せめて四位の少将以上ならでは得こそ嫁《あは》すまじきなど云ひ罵り、おのが真の女をば却つて心にも懸け居ざるさまにもてあつかひ居たりしが、右の大臣の御子|某《それ》の少将の、図らずも我が女をば垣間見玉ひて懸想し玉ひしより事起りて、叔母の心いと頑兇《かたくな》になり日に/\口喧《くちかしがま》しう嘲《あざ》み罵り、或時は正なくも打ち擲き、密に調伏の法をさへ由無き人して行せたるよしなり、某の少将と云へるは才賢く心性《こゝろざま》誠ありて優しく、特《こと》に玉を展べたる様の美しき人なれば、自己が生の女の婿がねにと叔母の思ひつきぬるも然ることながら、其望みの思ふがまゝにならで、飾り立てたる我が女には眼も少将の遣り玉はざるが口惜しとて、養ひ娘を悪くもてあつかふ愚さ酷さ、昔時《むかし》の優しかりしとは別のやうなる人となりて、奴婢《ぬび》の見る眼もいぶせきまでの振舞を為る折多しと聞く、既に御仏の道に入りたまひたれば我には今は子ならずと君は仰すべけれど、其君が子はいと美しう才もかしこく生れつきて、しかも美しく才かしこくして位高き際の人に思はれながら、心の底には其人を思はぬにしもあらざるに、養はれたる恩義の桎梏《かせ》に情《こゝろ》を枉《ま》げて自ら苦み、猶其上に道理無き呵責《かしやく》を受くる憫然《あはれさ》を君は何とか見そなはす、棄恩《きおん》入無為《にふむゐ》の偈《げ》を唱へて親無し子無しの桑門《さうもん》に入りたる上は是非無けれども、知つては魂魄《たましひ》を煎らるゝ思ひに夜毎の夢も安からず、いと恐れあることながら此頃の乱れに乱れし心からは、御仏の御教も余りに人の世を外《そ》れたる、酷き掟なりと聊かは御恨み申すこともあるほど、子といひながら子と云へねば、親にはあれど親ならぬ、世の外の人、内の人、知らぬ顔して過すをば、一旦仏門に入りしものゝ行儀とするも理無《わりな》しや、春は大路の雨に狂ひ小橋の陰に翻る彼の燕だに、児を思ふては日に百千度《もゝちたび》巣に出入りす、秋の霜夜の冷えまさりて草野の荒れ行く頃といへば、彼の兎すら自己が毛を咬みて※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]りて綿として、風に当てじと手を愛《いとほ》しむ、それには異《かは》りて我※[#二の字点、1−2−22]の、纔に一人の子を持ちて人となるまで育てもせず、児童《こども》の間《なか》の遊びにも片親無きは肩|窄《すぼ》る其の憂き思を四歳《よつ》より為せ、六歳《むつ》といふには継《まゝ》しき親を頭に戴く悲みを為せ、雲の蒸す夏、雪の散る冬、暑さも寒さも問ひ尋ねず、山に花ある春の曙、月に興ある秋の夜も、世にある人の姫|等《たち》の笑み楽しむには似もつかず、味気無う日を送らせぬる其さへ既に情無く親甲斐の無きことなれば、同じほどなる年頃の他家《よそ》の姫なんどを見るにつけ、嗚呼我が子はと思ひ出でゝ、木の片、竹の端くれと成り極めたる尼の身の我が身の上は露思はねど、かゝる父を持ち母を持ちたる吾が子の果報の拙さを可哀《あはれ》と思はぬことも無し、況して此頃の噂を聞き又余所ながら視もすれば、心に春の風渡りて若木の花の笑まんとする恋の山路に悩める娘の、女の身には生命なる生くる死ぬるの岐れにも差し掛りたる態なる上、生みの子の愛に迷ひ入りたる頑凶《かたくな》の老婆《ばゞ》に責められて朝夕を経る胸の中、父上|御坐《おは》さば母在らばと、親を慕ひて血を絞る涙に暮るゝ時もある体《てい》、親の心の迷はずてやは、打捨て置かば女は必ず彼方此方の悲さに身を淵河にも沈めやせん、然無くも逼る憂さ辛さに終には病みて倒れやせん、御仏の道に入りたれば名の上の縁《えにし》は絶えたれど、血の聯続《つらなり》は絶えぬ間《なか》、親なり、子なり、脈絡《すぢ》は牽《ひ》く、忘るゝ暇もあらばこそ、昼は心を澄まして御仏に事《つか》へまつれど、夜の夢は女《むすめ》のことならぬ折も無し、若し其儘に擱《さしお》いて哀しき終を余所※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]しく見ねばならずと定まらば、仏に仕ふる自分《みづから》は禽にも獣にも慚しや、たとへば来ん世には金《こがね》の光を身より放つとも嬉しからじ、思へば御仏に事ふるは本は身を助からんの心のみにて、子にも妻にもいと酷き鬼のやうなることなりけり、爽快《いさぎよき》には似たれども自己《おのれ》一人を蓮葉《はちすば》の清きに置かん其為に、人の憂きめに眼も遣らず人の辛きに耳も仮さず、世を捨てたればと一[#(ト)]口に、此世の人のさま/″\を、何ともならばなれがしに斥け捨つるは卑しきやうなり、何とて尼にはなりたりけん、如何にもして女と共に経るべかりしに、鈍《おぞ》くも自ら過ちけるよ、今は後世《ごせ》安楽も左のみ望まじ、火※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《くわかう》に墜つるも何かあらん、俗に還りて女を叔母より取り返さんと、思ひしことも一度二度ならずありたりき、然れども流石|年来《としごろ》頼める御仏に離れまゐらせんことも影護《うしろめた》くて、心と心との争ひに何となすべき道も知らず、幼きより頼みまゐらせたる此地《こゝ》の御仏に七夜参の祈願を籠めしも、女の上の安かれとおもふ為ばかり、恰も今宵満願の折から図らず御眼にかゝりて、胸には此事あり此|念《おもひ》あるに、情無かりし君が徃時《むかし》の家を出でたまひし時の御光景《おんありさま》まで一[#(ト)]時に眼に浮み来りしかば、思へば女が四歳《よつ》の年、振分髪の童姿、罪も報も無き顔に愛度《あど》なき笑みの色を浮めて、父上※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と慕ひ寄りつゝ縋りまゐらせたるを御心強くも、椽より下へと荒らかに※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]落《けおと》し玉ひし其時が、女の憂目の見初《みはじめ》なりしと、思ふにつけても悲さに恨めしささへ添ふ心地、御なつかしさも取り交ぜて文《あや》も分かたずなりし涙の抑へ難かりしは此故なり、と細※[#二の字点、1−2−22]《こま/\》と語れば西行も数度《あまたゝび》眼を押しぬぐひしが、声を和らげていと静に、云ひたまふところ皆其理あり、たゞし女の上の事は未だ知らずに御在《おはす》と見えたり、此の五日ほど前の事なり、我みづから女を説き諭して、既に火宅《くわたく》の門を出でゝ法苑の内に入らしめ終んぬ、聊か聞くところありしかば、眼前の※[#「二点しんにょう+屯」、第4水準2−89−80]※[#「二点しんにょう+亶」、第4水準2−90−2]《ちゆんてん》を縁として身後の安楽を願はせんと、たゞ一度会ひて言《ものい》ひしに、親|羞《はづか》しき利根のものにて、宿智にやあらん其言ふところ自ら道に協へる節あり、父上既に世を逃れ玉ひぬ、おのれも御後に従はんとこそ思へ、世に百歳《もゝとせ》の夫婦《めをと》も無し、なにぞ一期の恩愛を説かん、たとひ思ふこと叶ひ、望むこと足りぬとも、※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2−5−68]《そね》みを蒙り羨を惹きて在らんは拙るべし、もとより女の事なれば世に栄えん願ひも左までは深からず、親の御在さねば身を重んずる念《おもひ》もやゝ薄し、あながち御仏を頼みまゐらせて浄土に生れんとにはあらねど、如何なる山の奥にもありて草の庵の其内に、荊棘《おどろ》を簪《かざし》とし粟稗《あはひえ》を炊ぎてなりと、たゞ心|清《すゞ》しく月日経ばやなどと思ひたることは幾度と無く侍り、睦《むつ》ぶべき兄弟《はらから》も無し、語らふべき朋友《とも》も持たず、何に心の残り留まるところも無し、養はれ侍りし恩恵《みめぐみ》に答へまゐらすること無きは聊か口惜けれど、大叔母君の現世安穏後生善処《げんぜあんのんごしやうぜんしよ》と必ず日※[#二の字点、1−2−22]に祈りて酬ひまゐらせん、又情ある人のたゞ一人侍りしが、何と申し交したることも無ければ別れ/\になるとも怪《け》しうはあらず、雲は旧《もと》に依つて白く山は旧に依つて青からんのみなり、全く世をば思ひ切り侍りぬ、とく導師となりて剃度せしめ玉へと、雄※[#二の字点、1−2−22]しくも云ひ出でたれば、其心根の麗せきに愛でゝ、我また雄※[#二の字点、1−2−22]しくも丈なる烏羽玉《うばたま》の髪を落して色ある衣《きぬ》を脱ぎ棄てさせ、四弘誓願《しぐせいぐわん》を唱へしめぬ、や、何と仕玉へる、泣き玉ふか、涙を流し玉ふか、無理ならず、菩提の善友よ、泣き玉ふ歟、嬉しさにこそ泣き玉ふならめ、浄土の同行よ、落涙あるか、定めし感涙にこそ御坐すらめ、おゝ、余りの有難さに自分《おのれ》もまた涙聊か誘はれぬ、さて美しき姫は亡せ果てたり、美しき尼君は生《な》り出で玉ひぬ、青※[#二の字点、1−2−22]としたる寒げの頭《かしら》、鼠色《ねずみ》の法衣《ころも》、小き数珠《ずゞ》、殊勝なること申すばかり無し、高野の別所に在る由の菩提の友を訪《とぶら》はんとて飄然として立出で玉ひぬ、其後の事は知るよし無し、燕の忙《せは》しく飛ぶ、兎の自ら剥ぐ、親は皆自ら苦む習なれば子を思はざる人のあらんや、但し欲楽の満足を与へ栄華の十分を享けしむるは、木葉《このは》を与へて児の啼きを賺《す》かす其にも増して愚のことなり、世を捨つる人がまことに捨つるかは
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング