りつきたるは、声音に紛ふかたも無き其昔《そのかみ》偕老同穴の契り深かりし我が妻なり。厭いて別れし仲ならず、子まで生《な》したる語らひなれば、流石男も心動くに、況して女は胸逼りて、語らんとするに言葉を知らず、巌《いは》に依りたる幽蘭の媚《なまめ》かねども離れ難く、たゞ露けくぞ見えたりける。
西行きつと心を張り、徐《しづか》に女の手を払ひて、御仏の御前に乱《らう》がはしや、これは世を捨てたる痩法師なり、捉へて何をか歎き玉ふ、心を安らかにして語り玉へ、昔は昔、今は今、繰言な露宣ひそ、何事も御仏を頼み玉へ、心留むべき世も侍らず、と諭せば女は涙にて、さては猶我を世に立交らひて月日経るものと思したまふや、灯火暗うはあれどおほよそは姿形をも猜《すゐ》し玉へ、君の保延に家を出でゝ道に入り玉ひしより、宵の鐘暁の鳥も聞くに悲く、春の花秋の月も眺むるに懶くて、片親無き児の智慧敏きを見るにつけ胸を痛め心を傷ましめしが、所詮は甲斐無き嗟歎《なげき》せんより今生は擱《さしお》き後世をこそ助からめと、娘を九条の叔母に頼みて君の御跡を追ひまゐらせ、同じ御仏の道に入り、高野の麓の天野といふに日比《ひごろ》行ひ居り侍《
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