全く静まりたる、時といひ、処といひ相応して、我耳に入るは我声ながら、若くは随喜仏法の鬼神なんどの、声を和《あは》せて共に誦する歟《か》と疑はるゝまで、上無く殊勝に聞こえわたりぬ。特《こと》に参りたる甲斐はありけり、菩薩も定めしかゝる折のかゝる所作《しよさ》をば善哉《よし》として必ず納受《なふじゆ》し玉ふなるべし、今宵の心の澄み切りたる此の清《すゞ》しさを何に比へん、あまりに有り難くも尊く覚ゆれば、今宵は夜すがら此御堂の片隅になり趺坐《ふざ》なして、暁天《あかつき》がたに猶一[#(ト)]度誦経しまゐらせて、扨其後香華をも浄水をも供じて罷らめと、西行やがて三拝して御仏の御前を少し退《すさ》り、影暗き一[#(ト)]隅に身を捩ぢ据ゑ、凍れる水か枯れし木の、動きもせねば音も立てず、寂然《じやくねん》として坐し居たり。
夜は沈※[#二の字点、1−2−22]と漸く更けて、風も睡れる如くになりぬ。右左に並びて立ちたりける御灯明《みあかし》は一つ消え、また一つ消えぬ。今はたゞいと高き吊灯籠の、光り朦朧として力無きが、夢の如くに残れるのみ。此寺《こゝ》の僧どもは寒気《さむさ》に怯ぢて所化寮《しよけれう》
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