《ぢんく》を濯《そゝ》ぎ、住吉の松が根洗ふ浪の音、難波江の蘆の枯葉をわたる風をも皆|御法《みのり》説く声ぞと聞き、浮世をよそに振りすてゝ越えし鈴鹿や神路山、かたじけなさに涙こぼれつ、行へも知れず消え失する富士の煙《けぶ》りに思ひを擬《よそ》へ、鴫立沢《しぎたつさは》の夕暮に※[#「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1−89−60]《つゑ》を停《とゞ》めて一人歎き、一人さまよふ武蔵野に千草の露を踏みしだき、果白河の関越えて幾干《いくそ》の山河隔たりし都の方をしのぶの里、おもはくの橋わたり過ぎ、嵐烈しく雪散る日辿り着きたる平泉、汀《みぎは》凍《こほ》れる衣川を衣手寒く眺めやり、出羽にいでゝ多喜の山に薄紅《うすくれなゐ》の花を愛《め》で、象潟《きさかた》の雨に打たれ木曾の空翠《くうすゐ》に咽んで、漸く花洛《みやこ》に帰り来たれば、是や見し往時《むかし》住みにし跡ならむ蓬が露に月の隠るゝ有為転変の有様は、色即空《しきそくくう》の道理《ことわり》を示し、亡きあとにおもかげをのみ遺し置きて我が朋友《ともどち》はいづち行きけむ無常迅速の為体《ていたらく》は、水漂草の譬喩《たとへ》に異ならず、いよ/\心を励まして、遼遠《はるか》なる巌の間《はざま》に独り居て人め思はず物おもはゞやと、数旬《しばらく》北山の庵に行ひすませし後、飄然と身を起し、加茂明神に御暇《おいとま》告《まを》して仁安三年秋の初め、塩屋の薄煙りは松を縫ふて緩くたなびき、小舟の白帆は霧にかくれて静に去るおもしろの須磨明石を経て、行く/\歌枕さぐり見つゝ図らずも此所|讚岐《さぬき》の国|真尾林《まをばやし》には来りしが、此所は大日流布《だいにちるふ》の大師の生れさせ給ひたる地にも近く、何と無く心とゞまりて如斯《かく》草庵を引きむすび、称名《しようみやう》の声の裏《うち》には散乱の意を摂し、禅那《ぜんな》の行の暇《ひま》には吟咏のおもひに耽り悠※[#二の字点、1−2−22]自ら楽むに、有がたや三世諸仏のおぼしめしにも叶ひしか、凡念日※[#二の字点、1−2−22]に薄ぎて中懐淡きこと水を湛へたるに同じく、罪障刻※[#二の字点、1−2−22]に銷《せう》して両肩《りやうけん》軽きこと風を担ふが如くになりしを覚ゆ。おもへば往事は皆非なり、今はた更に何をか求めん。奢を恣《ほしいま》まにせば熊掌《ゆうしやう》の炙りものも食《くら》ふに美味《よきあぢ》ならじ、足るに任すれば鳥足《てうそく》の繕したるも纏ふに佳衣《よききぬ》なり、ましてや蘿《つた》のからめる窓をも捨てゞ月我を吊《とむら》ひ、松たてる軒に来つては風我に戯る、ゆかしき方もある住居なり、南無仏南無仏、あはれよき庵、あはれよき松。

 久に経てわが後の世をとへよ松あとしのぶべき人も無き身ぞ

       其二

 真清水の世に出づべしともおもはねば見る眼寒げにすむ我を、慰め顔の一つ松よ。汝は三冬《さんとう》にも其色を変へねば我も一条《ひとすぢ》に此心を移さず。なむぢ嵐に揺いでは翠光を机上の黄巻《くわうくわん》に飛ばせば、我また風に托して香烟を木末《こずゑ》の幽花にたなびかす。そも/\我と汝とは往時《むかし》如何なる契りありけむ、かく相互に睦ぶこと是も他生の縁なるべし。草木国土|悉皆成仏《しつかいじやうぶつ》と聞くときは猶行末も頼みあるに、我は汝を友とせん。菩提樹神のむかしは知らねど、腕を組み言葉を交へずとも、松心あらば汝も我を友と見よ。僧青松の蔭に睡れば松老僧の頂を摩す、僧と松とは相応《ふさは》しゝ。我は汝を捨つるなからん。

 此所をまた我すみ憂くてうかれなば松はひとりにならんとすらん

 あら、心も無く軒端《のきば》の松を寂《さび》しき庵の友として眺めしほどに、憶ひぞ出でし松山の、浪の景色はさもあらばあれ、世の潮泡《しほなわ》の跡方なく成りまし玉ひし新院の御事胸に浮び来りて、あらぬさまにならせられ仁和寺《にんなじ》の北の院におはしましける時、ひそかに参りて畏くも御髪《みぐし》落させられたる御姿を、なく/\おぼろげながらに拝みたてまつりし其夜の月のいと明く、影もかはらで空に澄みたる情無かりし風情さへ、今|眼前《まのあたり》に見ゆるがごとし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実《げ》に人界《にんがい》不定《ふぢやう》のならひ、是非も無き御事とは申せ、想ひ奉《まつ》るもいとかしこし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏阿弥陀仏。おもへば不思議や、長寛二年の秋八月廿四日は果敢なくも志渡《しど》にて崩《かく》れさせ玉ひし日と承はれば、月こそ異《かは》れ明日は恰も其日なり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。いで御陵《みさゝき》のありと聞く白峯といふに明日は着き、御墓《おんしるし》の草をもはらひ、心の及ばむほどの御手向《おんたむ》けをもたてまつりて、い
前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング