二日物語
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)観見世間是滅法《くわんけんせけんぜめつぽふ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)我|憲清《のりきよ》と
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)一[#(ト)]声の
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)夢と見る/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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此一日
其一
観見世間是滅法《くわんけんせけんぜめつぽふ》、欲求無尽涅槃処《よくぐむじんねはんしよ》、怨親已作平等心《をんしんいさびやうどうしん》、世間不行慾等事《せけんふぎやうよくとうじ》、随依山林及樹下《ずゐえさんりんきふじゆげ》、或復塚間露地居《わくぶくちようかんろちきよ》、捨於一切諸有為《しやおいつさいしようゐ》、諦観真如乞食活《たいくわんしんによこつじきくわつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実《げ》に往時《いにしへ》はおろかなりけり。つく/″\静かに思惟《しゆゐ》すれば、我|憲清《のりきよ》と呼ばれし頃は、力を文武の道に労《つか》らし命を寵辱の岐《ちまた》に懸け、密《ひそ》かに自ら我をば負《たの》み、老病死苦の免《ゆる》さぬ身をもて貪瞋痴毒《とんじんちどく》の業《ごふ》をつくり、私邸に起臥しては朝暮|衣食《いゝし》の獄に繋がれ、禁庭に出入しては年月名利の坑《あな》に墜ち、小川の水の流るゝ如くに妄想の漣波《さゞなみ》絶ゆる間《ひま》なく、枯野の萱の燃ゆらむやうに煩悩の火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのほ》時あつて閃めき、意馬は常に六塵の境に馳せて心猿|動《やゝ》もすれば十悪の枝に移らんとし、危くもまた浅ましく、昨日見し人今日は亡き世を夢と見る/\果敢なくも猶驚かで、鶯の霞にむせぶ明ぼのの声は大乗妙典《だいじようめうてん》の御名を呼べども、羝羊《ていやう》の暗昧《あんまい》無智の耳うとくて無明の眠りを破りもせず、吹きわたる嵐の音は松にありて、空をさまよふ浮雲に磨かれ出づる秋の夜の月の光をあはれ宿す、荒野の裾のむら薄の露の白珠あへなくも、末葉元葉を分けて行く風に砕けてはら/\と散るは真《まこと》に即無常、金口説偈《きんくせげ》の姿なれども、※[#「目+(黒の旧字/土)」、117−上−19]※[#「塞」の「土」に代えて「目」、117−上−19]《ぼくそく》として視る無き瞎驢《くわつろ》の何を悟らむ由もなく、いたづらに御祓《みそぎ》済《すま》してとり流す幣《ぬさ》もろともに夏を送り、窓おとづるゝ初時雨に冬を迎へて世を経しが、物に定まれる性なし、人いづくんぞ常に悪《あし》からむ、縁に遇へば則ち庸愚《ようぐ》も大道を庶幾《しょき》し、教に順ずるときんば凡夫も賢聖に斉しからむことを思ふと、高野大師の宣ひしも嬉しや。一歳《ひととせ》法勝寺御幸の節、郎等一人六条の判官《はうぐわん》が手のものに搦められしを、厭離《おんり》の牙種《げしゆ》、欣求《ごんぐ》の胞葉《はうえふ》として、大治二年の十月十一日拙き和歌の御感に預り、忝なくも勅禄には朝日丸の御佩刀《おんはかせ》をたまはり、女院の御方よりは十五重りたる紅の御衣を賜はり、身に余りある面目を施せしも、畏くはあれど心それらに留まらず、ひたすら世路を出でゝ菩提に入り敷華成果《ふげじやうくわ》の暁を望まむと、遂に其月十五夜の、玉兎《つき》も仏国西方に傾く頃を南無仏南無仏、恩愛永離《おんないえいり》の時こそ来つれと、髻《もとゞり》斬つて持仏堂《ぢぶつ》に投げこみ、露憎からぬ妻をも捨て、いとをしみたる幼きものをも歯を切《くひしば》つて振り捨てつ、弦を離れし箭《や》の如く嵯峨《さが》の奥へと走りつき、ありしに代へて心安き一鉢三衣《いつぱつさんえ》の身となりし以来《このかた》、花を採り水を掬《むす》むでは聊か大恩教主の御前に一念の至誠を供《くう》じ、案を払ひ香を拈《ひね》つては謹んで無量義経の其中に両眼の熱光を注ぎ、兀坐寂寞《こつざじやくまく》たる或夜は、灯火《ともしび》のかゝげ力も無くなりて熄《と》まる光りを待つ我身と観じ、徐歩《じよほ》逍遥《せうえう》せる或時は、蜘蛛《さゝがに》の糸につらぬく露の珠を懸けて飾れる人の世と悟りて、ます/\勤行怠らず、三懺の涙に六度の船を浮めて、五力の帆を揚げ二障の波を凌がむとし、山林に身を苦しめ雲水に魂をあくがれさせては、墨染の麻の袂に春霞よし野の山の花の香を留め、雲湧き出づる那智の高嶺の滝の飛沫《しぶき》に網代小笠《あじろをがさ》の塵垢
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