る雲の、指して言ふべき自性も無きに、まして夏の日の峯と峙《そばだ》ち秋の夕の鱗とつらなり、或《ある》は蝶と飛び猪《ゐのこ》と奔りて緩くも急《はや》くも空行くが、おのれから為す業ならばこそ、皆風のさすことなるを何取り出でゝ憎むに足るべき、夫|尺蠖《せきくわく》は伸びて而も還《また》屈《かゞ》み、車輪は仰いで而も亦|低《た》る、射る弓の力窮まり尽くれば、飛ぶ矢の勢変り易《かは》りて、空向ける鏃も地に立つに至らんとす、此故に欲界の六天、天高けれども報尽きては宝殿|忽地《たちまち》に崩れ、魔王の十善、善|大《おほい》なればとて果《くわ》窮まれば業苦早くも逼る、人間五十年の石火の如くなるのみならず天上幾万歳も電光に等しかるべし、御怨恨《おんうらみ》も復《かへ》し玉ふべからむ、御忿恚《おんいきどほり》も晴らさせ玉ふべからん、さて其暁は如何にして御坐《おは》さんとか思す、一旦出離の道には入らせたまひたれど断縛の劒を手にし玉はず、流転の途は厭はせられたりしも人我《にんが》の空をば肯《うけが》ひは為玉はざりしや、何とて幺微《いさゝか》の御事に忌はしくも自ら躓かせたまひて、法《のり》の便りの牛車を棄て、罪の齎らす火輪にも駕《が》さんとは思したまふ、生空《しやうくう》を唯薀《ゆゐうん》に遮し、我倒《がたう》を幻炎に譬ふれば、我が瞋《いか》るなる我や夫《それ》いづくにか有る、瞋るが我とおぼすか我が瞋るとおぼすか、思ひと思ひ、言ふと言ふ万端《よろづ》のこと皆|真実《まこと》なりや、訝《いぶ》かれば訝かしく、疑へば疑はしきものとこそ覚え侍れ、笑ひも恨みも、はた歓びも悲みも、夕に来ては旦《あした》に去る旅路の人の野中なる孤屋《ひとつや》に暫時《しばし》宿るに似て、我とぞ仮に名を称《よ》ぶなるものの中をば過ぐるのみ、いづれか畢竟《つひ》の主人《あるじ》なるべき、客《かく》を留めて吾が主と仰ぎ、賊を認めて吾が子となす、其悔無くばあるべからず、恐れ多けれど聡明|匹儔《たぐひ》無く渡らせたまふに、凡庸も企図せざるの事を敢て為玉ひて、千人の生命を断たんと瞋恚《じんゐ》の刀を提《ひつさ》げし央掘魔《あうくつま》が所行《ふるまひ》にも似たらんことを学ばせらるゝは、一婦の毒咒《どくじゆ》に動かされて総持の才を無にせんとせし阿難陀《あなんだ》が過失《あやまち》にも同じかるべき御迷ひ、御傷《おんいた》はしくもまた口惜く、云ひ甲斐無くも過《あやま》たせたまふものかな、烈日が前の片時雨、聖智が中《うち》の御一失、疾《と》く/\御心を翻《ひるが》へしたまひて、三趣に沈淪し四生に※[#「足へん+令」、122−上−1]※[#「足へん+屏」、122−上−1]《れいへい》するの醜さを出で、一乗に帰依し三昧に入得《につとく》するの正きに仗《よ》り御坐しませ、宿福広大にして前業《ぜんごふ》殊勝に渡らせたまふ御身なれば、一念※[#二の字点、1−2−22]頭の転じたまふを限に弾指《たんし》転※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《てんけん》の間も無く、神通の宝輅《はうらく》に召し虚空を凌いで速かに飛び、真如の浄域に到り、光明を発して長《とこし》へに熾《さかん》に御坐しまさんこと、などか疑ひの侍るべき、仏魔は一紙、凡聖《ぼんじやう》は不二、煩悩即菩提《ぼんなうそくぼだい》、忍土即浄土《にんどそくじやうど》、一珠わづかに授受し了れば八歳の竜女当下《りゆうによたうか》に成仏すと承はる、五障女人《ごしやうによにん》の法器にあらぬにだに猶彼が如し、まして十善天子の利根に御坐すに、いかで正覚を成し玉はざらん、御経には成等正覚《じやうとうしやうがく》、広度衆生《くわうどしゆじやう》、皆因提婆達多善知識故《かいいんだいばだつたぜんちしきご》と説かれ侍るを、誰憎しとか思す、恐れ多けれど、そもや誰人憎しとか思す、怨敵まことは道の師なり、怨敵まことは道の師なり、眼《まなこ》をあげて大千三千世界を観るに、我が皇《きみ》の怨敵たらんもの、いづくにか将《はた》侍るべき、まこと我が皇の御敵《おんあだ》たらんものの侍らば、痩せたる老法師の力|乏《とも》しくは侍れども、御力を用ゐさせ玉ふまでもなく、大聖威怒王《だいしやうゐぬわう》が折伏《しやくぶく》の御劒をも借り奉り、迦楼羅《かるら》の烈炎の御猛威《おんみやうゐ》にも頼《よ》り奉りて、直に我が皇の御敵を粉にも灰にも摧《くだ》き棄て申すべし、さりながら皇の御敵の何処《いづく》の涯にもあらばこそ、巴豆《はづ》といひ附子《ぶし》といふも皆是薬、障礙《しやうげ》の悪神《あくじん》毘那耶迦《びなやか》も本地は即《すなはち》毘盧沙那如来《びるしやなによらい》、此故に耆婆《きば》眼《まなこ》を開けば尽大地の草木、保命《ほうみやう》の霊薬ならぬも無く、仏陀《ぶつだ》教を垂るれば遍虚空《へんこ
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