で、隔生即忘《かくしやうそくまう》、焚塵即浄《ふんぢんそくじやう》、無垢の本土に返らせ玉はむこそ願はまほしけれ、頓《やが》ては迂僧も肉壊骨散《にくゑこつさん》の暁を期し、弘誓《ぐぜい》の仏願を頼りて彼岸にわたりつき、楽しく御傍に参りつかふまつるべし、迷はせ玉ふな迷はせ玉ふな、唯何事も夢まぼろし、世に時めきて栄ゆるも虚空に躍る水珠の、日光により七彩を暫く放つに異ならず、身を狭められ悶ゆるも闇夜を辿る稚児《をさなご》の、樹影を認めて百鬼来たりと急に叫ぶが如くなれば、得意も非なり失意も非なり、歓ぶさへも空《あだ》なれば如何で何事の実在《まこと》ならんとぞ承はりおよぶ、無有寃親想《むうをんしんさう》、永脱諸悪趣《えいだつしよあくしゆ》、所詮は御心を刹那にひるがへして、常生適悦心《じやうしやうてきえつしん》、受楽無窮極《じゆらくむきゆうきよく》、法味を永遠に楽ませ玉へ、と思入つて諫めたてまつれば、院の御霊は雲間に響く御声してから/\と異様《ことやう》に笑はせ玉ひ、おろかや解脱の法を説くとも、仏も今は朕《わ》が敵《あだ》なり、涅槃《ねはん》も無漏《むろ》も肯《うけが》はじ、徃時《むかし》は人朕が光明《ひかり》を奪ひて、朕《われ》を泥犂《ないり》の闇に陥しぬ、今は朕人を涙に沈ましめて、朕が冷笑《あざわらひ》の一[#(ト)]声の響の下に葬らんとす、おもひ観よ汝、漸く見ゆる世の乱は誰が為すこととぞ汝はおもふ、沢の蛍は天に舞ひ、闇裏《やみ》の念《おもひ》は世に燃ゆるぞよ、朕は闇に動きて闇に行ひ、闇に笑つて闇に憩《やすら》ふ下津岩根の常闇《とこやみ》の国の大王《おほぎみ》なり、正法《しやうぼふ》の水有らん限は魔道の波もいつか絶ゆべき、仏に五百の弟子あらば朕《われ》にも六天八部の属あり、三世の諸仏菩薩の輩《ともがら》、何の力か世にあるべき、たゞ徒に人の舌より人の耳へと飛び移り、またいたづらに耳より舌へと現はれ出でゝ遊行するのみ、朕が眷属の闇きより闇きに伝ひ行く悪鬼は、人の肺腑に潜み入り、人の心肝骨髄《しんかんこつずゐ》に咬《く》ひ入つて絶えず血にぞ飽く、視よ見よ魔界の通力もて毒火を彼が胸に煽り、紅炎《ぐえん》を此《これ》が眼より迸《はし》らせ、弱きには怨恨《うらみ》を抱かしめ強きには瞋《いか》りを発《おこ》さしめ、やがて東に西に黒雲狂ひ立つ世とならしめて、北に南に真鉄《まがね》の光の煌《きら》めき交《ちが》ふ時を来し、憎しとおもふ人※[#二の字点、1−2−22]に朕が辛かりしほどを見するまで、朝家に酷《むご》く祟《たゝり》をなして天が下をば掻き乱さむ、と御勢ひ凛※[#二の字点、1−2−22]しく誥《つ》げたまふにぞ、西行あまりの御あさましさに、滝と流るゝ熱き涙をきつと抑へて、恐る惶《おそ》るいさゝか首《かうべ》を擡《もた》げゝる。
其六
こは口惜くも正《まさ》なきことを承はるものかな、御言葉もどかんは恐れ多けれど、方外の身なれば憚り無く申し聞えんも聊か罪浅う思し召されつべくやと、遮つて存じ寄りのほどを言《まを》し試み申すべし、御憤はまことにさる事ながら、若人|瞋《いか》り打たずんば何を以てか忍辱《にんにく》を修めんとも承はり伝へぬ、畏れながら、ながらへて終に住むべき都も無ければ憂き折節に遇ひたまひたるを、世中《よのなか》そむかせたまふ御便宜《おんたより》として、いよ/\法海の深みへ渓河《たにがは》の浅きに騒ぐ御心を注がせたまひ、彼岸の遠きへ此|土《ど》の汀去りかぬる御迷を船出せさせ玉ひて、玉をつらぬる樹《こ》の下に花降り敷かむ時に逢はむを待ちおはす由承はりし頃は、寂然《じやくねん》、俊成《としなり》などとも御志の有り難さを申し交して如何ばかりか欣ばしく存じまゐらせしに、御|納経《なふきやう》の御望み叶はせられざりしより、竹の梢に中つて流《そ》るゝ金弾の如くに御志あらぬ方へと走り玉ひ、鳴門の潮の逆風《さかかぜ》に怒つて天に滔《はびこ》るやう凄じき御祈願立てさせ玉ひしと仄に伝へ承はり侍りしが、冀《ねが》はくは其事の虚《いつはり》妄にてあれかしと日比《ひごろ》念じまゐらせし甲斐も無う、さては真に猶此|裟婆界《しやばかい》に妄執をとゞめ、彼《かの》兜卒天《とそつてん》に浄楽は得ず御坐《おはし》ますや、訝《いぶか》しくも御意《みこゝろ》の然《さ》ばかり何に留まるらん、月すめば谷にぞ雲は沈むめる、嶺吹き払ふ風に敷かれてたゞ御※[#「匈/(胃−田)」、121−上−27]《おんむね》の月|明《あか》からんには、浮き雲いかに厚う鎖すとも氷輪無為の天《そら》の半に懸り御坐《おは》して、而も清光|湛寂《たんじやく》の潭《ふち》の底に徹することのあるべきものを、雲憎しとのみおぼさんは、そも如何にぞや、降《くだ》れば雨となり、蒸せば霞となり、凝れば雪ともな
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