》音もせず動きて、黒きが中に見え隠れする星の折ふしきら/\と鋭き光りを落すのみにて、月はいまだ出でず。ふけ行くまゝに霜冴えて石床《せきしやう》いよ/\冷やかに、万籟《ばんらい》死して落葉さへ動かねば、自然《おのづ》と神《しん》清《す》み魂魄《たましひ》も氷るが如き心地して何とはなしに物凄まじく、尚御経を細※[#二の字点、1−2−22]と誦しつゞくるに、声はあやなき闇に迷ひて消ゆるが如く存《あ》るが如く、空にかくれてまたふたゝび空より幽に出で来るごときを、吾が声とも他《ひと》の声ともおぼつかなく聴きつゝ、濁劫悪世中《ぢよくごふあくせちゆう》、多有諸恐怖《たうしよきようふ》、悪鬼入其身《あくきにふごしん》、罵詈毀辱我《ばりきじよくが》、と今しも勧持品《くわんぢぼん》の偈《げ》を称ふる時、夢にもあらず我が声の響きにもあらで、正しく円位※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と呼ぶ声あり。
其五
西行かすかに眼《まなこ》を転じて、声する方の闇を覗《うかゞ》へば、ぬば玉の黒きが中を朽木のやうなる光り有てる霧とも雲とも分かざるものの仄白く立ちまよへる上に、其|様《さま》異《こと》なる人の丈いと高く痩せ衰へて凄まじく骨立ちたるが、此方に向ひて蕭然《せうぜん》と佇《たゝず》めり。素より生死の際に工夫修行をつみたる僧なれば恐ろしとも見ず、円位と呼ばれしは抑《そも》何人にておはすや、と尋ぬれば、嬉しくも詣で来つるものよ、我を誰とは尋ねずもあれ、末葉吹く嵐の風のはげしさに園生の竹の露こぼれける露の身ぞ、よく訪《と》ひつるよ、と聞え玉ふ。あら情無や勿体なしや、さては院の御霊《みたま》の猶此|土《ど》をば捨てさせ玉はで、妄執の闇に漂泊《さすら》ひあくがれ、こゝにあらはれ玉ひし歟、あら悲しや、と地に伏して西行涙をとゞめあへず。
さりとてはいかに迷はせ玉ふや、濁穢《ぢよくゑ》の世をば厭ひ捨て玉ひつることの尊くも有難くおぼえて、いさゝか随縁法施《ずゐえんほふせ》したてまつりしに、六慾の巷にふたゝび現形《げんぎやう》し玉ふは、いとかしこくも口惜き御心に侍り、仮現《けげん》の此|界《さかひ》にてこそ聖慮安らけからぬ節もおはしつれ、不堅如聚沫《ふけんによじゆまつ》の御身を地水火風にかへし玉ひつる上は、旋転如車輪《せんでんによしやりん》の御心にも和合動転を貪り玉は
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