も固《もと》より憎むに足らず、三春の花も凋落の夕には芬芳《ふんばう》の香り早く失せて、※[#「虫+夾」、第3水準1−91−54]蝶《けふてふ》漸く情疎《じやうそ》なるもまた恨むに詮なし。恐れ多けれども一天万乗の君なりとて欲界の網羅を脱し得玉はねば、如是《かく》なり玉ふこと如是なり玉ふべき筈あり、憎まむ世も無く恨まむ天もあるべからず。おもんみれば、赫※[#二の字点、1−2−22]たる大日輪は螻蟻《ろうぎ》の穴にも光を惜まず、美女の面《おもて》にも熱を減ぜず、茫※[#二の字点、1−2−22]たる大劫運《だいごふうん》は茅茨《ばうし》の屋よりも笑声を奪はず、天子眼中にも紅涙を餽《おく》る、尽大地《じんだいち》の苦、尽大地の楽、没際涯《ぼつさいがい》の劫風《ごふふう》滾※[#二の字点、1−2−22]《こん/\》たり、何とりいでゝ歎き喞たむ。さはさりながら現土には無上の尊き御身をもて、よしなき事をおぼしたゝれし一念の御迷ひより、幾干《いくそ》の罪業《つみ》を作り玉ひし上、浪煙る海原越えて浜千鳥あとは都へ通へども、身は松山に音をのみぞなく/\孤灯に夜雨を聴き寒衾《かんきん》旧時を夢みつゝ、遂に空くなり玉ひし御事、あまりと申せば御傷《おんいたは》しく、後の世のほども推し奉るにいと恐ろしゝ。いざや終夜《よもすがら》供養したてまつらむと、御墓《みしるし》より少し引きさがりたるところの平《ひら》めなる石の上に端然《たんねん》と坐をしめて、いと静かにぞ誦しいだす。妙法蓮華経提婆達多品《めうほふれんげきやうだいばだつたぼん》第十二。爾時仏告諸菩薩及天人四衆《にじぶつかうしよぼさつきふてんにんししゆ》、吾於過去無量劫中《ごおくわこむりやうごふちゆう》、求法華経無有懈倦《ぐほけきやうむうげけん》、於多劫中常作国王《おたごふちゆうじやうさこくわう》、発願求於無上菩提《ほつぐわんぐおむじやうぼだい》、心不退転《しんふたいてん》、為欲満足六波羅密《ゐよくまんぞくろくはらみつ》、勤行布施《ごんぎやうふせ》、心無悋惜《しんむりんじやく》、象馬七珍国城妻子奴婢僕従《ざうめしつちんこくじやうさいしぬびぼくじゆう》、頭目身肉手足不惜躯命《づもくしんにくしゆそくふじやくくみやう》、……
 日は全く没《い》りしほどに山深き夜のさま常ならず、天かくすまで茂れる森の間に微なる風の渡ればや、樹端《こずゑ》の小枝《さえだ
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