突貫紀行
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)疾《やまい》あり
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|行李《こうり》の書を典し
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16、90−2]回《えいかい》せる
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身には疾《やまい》あり、胸には愁《うれい》あり、悪因縁《あくいんねん》は逐《お》えども去らず、未来に楽しき到着点《とうちゃくてん》の認めらるるなく、目前に痛き刺激物《しげきぶつ》あり、慾《よく》あれども銭なく、望みあれども縁《えん》遠し、よし突貫してこの逆境を出《い》でむと決したり。五六枚の衣を売り、一|行李《こうり》の書を典し、我を愛する人二三にのみ別《わかれ》をつげて忽然《こつぜん》出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内《ももない》を過ぐる頃《ころ》、馬上にて、
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きていたるものまで脱《ぬ》いで売りはてぬ
いで試みむはだか道中
[#ここで字下げ終わり]
小樽《おたる》に名高きキトに宿りて、夜涼《やりょう》に乗じ市街を散歩するに、七夕祭《たなばたまつり》とやらにて人々おのおの自己《おの》が故郷の風《ふう》に従い、さまざまの形なしたる大行燈《おおあんどう》小行燈に火を点じ歌い囃《はや》して巷閭《こうりょ》を引廻《ひきま》わせり。町幅一杯《まちはばいっぱい》ともいうべき竜宮城《りゅうぐうじょう》に擬《ぎ》したる大燈籠《おおどうろう》の中に幾《いく》十の火を点ぜるものなど、火光美しく透《す》きて殊《こと》に目ざましく鮮《あざ》やかなりし。
二十六日、枝幸丸《えさしまる》というに乗りて薄暮《はくぼ》岩内港《いわないみなと》に着きぬ。この港はかつて騎馬《きば》にて一遊せし地なれば、我が思う人はありやなしや、我が面を知れる人もあるなれど、海上|煙《けむ》り罩《こ》めて浪《なみ》もおだやかならず、夜の闇《くら》きもたよりあしければ、船に留《とど》まることとして上陸せず。都鳥に似たる「ごめ」という水禽《みずとり》のみ、黒み行く浪の上に暮《く》れ残りて白く見ゆるに、都鳥も忍《しの》ばしく、父母すみたもう方、ふりすてて来し方もさすがに思わざるにはあらず。海気は衣を撲《う》って眠《ねむ》り美ならず、夢魂《むこん》半夜|誰《た》が家をか遶《めぐ》りき。
二十七日正午、舟《ふね》岩内を発し、午後五時|寿都《すっつ》という港に着きぬ。此地《ここ》はこのあたりにての泊舟《はくしゅう》の地なれど、地形|妙《みょう》ならず、市街も物淋《ものさび》しく見ゆ。また夜泊《やはく》す。
二十七日の夜ともいうべき二十八日の夙《はや》くに出港せしが、浪風あらく雲乱れて、後には雨さえ加わりたり。福山すなわち松前《まつまえ》と往時《むかし》は云《い》いし城下に暫時《ざんじ》碇泊《ていはく》しけるに、北海道には珍《めず》らしくもさすがは旧城下だけありて白壁《しらかべ》づくりの家など眸《め》に入る。此地には長寿《ちょうじゅ》の人|他処《よそ》に比べて多く、女も此地生れなるは品よくして色|麗《うる》わしく、心ざま言葉つきも優しき方なるが多きよし、気候水土の美なればなるべし。上陸して逍遥《しょうよう》したきは山々なれど雨に妨《さまた》げられて舟を出でず。やがてまた吹き来し強き順風に乗じて船此地を発し、暮るる頃|函館《はこだて》に着き、直《ただ》ちに上陸してこの港のキトに宿りぬ。建築《けんちく》半ばなれども室広く器物清くして待遇《たいぐう》あしからず、いと心地よし。
二十九日、市中を散歩するにわずか二年余見ざりしうちに、著しく家列《いえなら》びもよく道路も美しくなり、大町末広町なんどおさおさ東京にも劣《おと》るべからず。公園のみは寒気強きところなれば樹木の勢いもよからで、山水の眺《なが》めはありながら何となく飽《あ》かぬ心地すれど、一切の便利は備わりありて商家の繁盛《はんじょう》云《い》うばかり無し。客窓の徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》むるよすがにもと眼にあたりしままジグビー、グランドを、文魁堂《ぶんかいどう》とやら云える舗《みせ》にて購《こ》うて帰りぬ。午後、我がせし狼藉《ろうぜき》の行為《こうい》のため、憚《はばか》る筋の人に捕《とら》えられてさまざまに説諭《せつゆ》を加えられたり。されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑《がん》として屈《くっ》せず、他の好意をば無になして辞して帰るやいなや、直ちに三里ほど隔《へだ》たれる湯の川温泉というに到《いた》り、しこうして封書《ふうしょ》を友人に送り、
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