彼《かれ》笑って、ああおのし、まようて損したり、福岡の橋を渡《わた》らねばならずと云う。余ここにおいていよいよ落胆《らくたん》せり。されどそのままあるべきにもあらず、日も高ければいそぎて行くに、二時《ふたとき》ばかりにして一の戸駅と云える標杭《しるしぐい》にあいぬ。またまたあやしむこと限りなし。ふたたび貝石うる家の前に出《い》で、価を問うにいと高ければ、いまいましさのあまり、この蛤《はまぐり》一升|天保《てんぽう》くらいならば一|石《こく》も買うべけれと云えば、亭主《ていしゅ》それは食わむとにやと問う。元よりなりと答う。煮《に》るかと云うに、いや生《なま》こそ殊《こと》にうましなぞと口より出まかせに饒舌《しゃべ》りちらせば、亭主、さらば一升まいらせむ、食いたまえと云う。その面《つら》つきいと真面目《まじめ》なれば逃げんとしたれども、ふと思い付きて、まず殻《から》をとりてたまわれと答えける。亭主|噴飯《ふきだ》して、さてさておかしきことを云う人よと云う。おかしさはこれのみならず、余は今日二時間ばかりにて十五里歩みぬ、またおかしからずやと云えば、亭主、否々、吾等《われら》は老《おい》たれども二時間に三十里はあゆむべしと云う。だんだん聞くに六町一里にて大笑いとなりぬ。昼めし過ぎて小繋《こつなぎ》まではもくらもくらと足引の山路いとなぐさめ難く、暮れてあやしき家にやどりぬ。きのこずくめの膳部《ぜんぶ》にてことごとく閉口す。
十六日、朝いと早く暗き内に出で、沼宮内《ぬまくない》もつつと抜けて、一里ばかりにて足をいため、一寸余りの長さの「まめ」三個できければ、歩みにくきことこの上なけれど、休みもせず、ついに渋民《しぶたみ》の九丁ほど手前にて水飲み飯したため、涙ぐみて渋民に入りぬ。盛岡《もりおか》まで二十銭という車夫あり、北海道の馬より三倍安し。ついにのりて盛岡につきぬ。久しぶりにて女子らしき女子をみる。一体土地の風俗温和にていやしからず。中学は東京の大学に似たれど、警察署は耶蘇《やそ》天主堂に似たり。ともかくも青森よりは遥《はるか》によろしく、戸数も多かるべし。肴町《さかなまち》十三日町|賑《にぎわ》い盛《さかん》なり、八幡《はちまん》の祭礼とかにて殊更《ことさら》なれば、見物したけれど足の痛さに是非《ぜひ》もなし。この日岩手富士を見る、また北上川の源に沼宮内より逢《あ》う、共に奥州《おうしゅう》にての名勝なり。
十七日、朝早く起き出でたるに足|傷《いた》みて立つこと叶《かな》わず、心を決して車に乗じて馳《は》せたり。郡山《こおりやま》、好地《こうち》、花巻、黒沢尻《くろさわじり》、金が崎、水沢、前沢を歴《へ》てようやく一ノ関に着す。この日行程二十四里なり。大町なんど相応の賑いなり。
十八日、朝霧《あさぎり》いと深し。未明|狐禅寺《こぜんじ》に到り、岩手丸にて北上《きたかみ》を下る。両岸景色おもしろし。いわゆる一山|飛《とん》で一山来るとも云うべき景にて、眼|忙《いそが》しく心ひまなく、句も詩もなきも口惜《くちお》しく、淀《よど》の川下りの弥次よりは遥かに劣れるも、さすがに弥次よりは高き情をもてる故なるべしとは負惜《まけおし》みなり。登米《とよま》を過ぐる頃、女の児《こ》餅《もち》をうりに来る。いくらぞと問えば三文と答う。三毛かと問えばはいと云い、三厘かといえばまたはいと云う。なおくどく問えば怫然《ふつぜん》として、面ふくらかして去る。しばらくして石の巻に着す。それより運河に添うて野蒜《のびる》に向いぬ。足はまた腫《は》れ上りて、ひとあしごとに剣をふむごとし。苦しさ耐《た》えがたけれど、銭はなくなる道なお遠し、勤《ごん》という修行、忍《にん》と云う観念はこの時の入用なりと、歯を切《くいしば》ってすすむに、やがて草鞋《わらじ》のそこ抜けぬ。小石原にていよいよ堪《た》え難きに、雨降り来り日暮るるになんなんたり。やむをえず負える靴《くつ》をとりおろして穿《うが》ち歩むに、一ツ家のわらじさげたるを見当り、うれしやと立寄り一ツ求めて十銭札を与うるに取らず、通用は近日に廃《はい》せらるる者ゆえ厭《いと》い嫌《きら》いて、この村にては通用ならぬよしの断りも無理ならねど、事情の困難を話してたのむに、いじわる婆《ばばあ》めさらに聞き入れず。なくなく買わずにまた五六町すぎて、さても旅は悲しき者とおもいしりぬ。鴻雁《こうがん》翔天《しょうてん》の翼《つばさ》あれども栩々《くく》の捷《しょう》なく、丈夫《じょうふ》千里の才あって里閭《りりょ》に栄|少《すくな》し、十銭時にあわず銅貨にいやしめらるなぞと、むずかしき愚痴《ぐち》の出所はこんな者とお気が付かれたり。ようやくある家にて草鞋を買いえて勇を奮《ふる》い、八時半頃|野蒜《のびる》につきぬ。白魚の子の吸物《
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