参詣のものを除きここの人々のみにて百人に近しといえば、まことに然《さ》もあるべきことなるが、水をば今は新らしき装置《しかけ》もて絶ゆる間《ひま》なく汲み上ぐるという。
 夜の食を済ませて後、為すこともなければ携えたる地理の書を読みかえすに、『武甲山蔵王権現縁起』というものを挙げたるその中に、六十一代|朱雀《すざく》天皇|天慶《てんぎょう》七年秩父別当武光同其子七郎武綱|云々《うんぬん》という文見え、また天慶七年武光奏し奉りて勅を蒙《こうむ》り五条天皇(疑わし)少彦名命《すくなひこなのみこと》を蔵王権現の宮に合せ祀《まつ》りて云々と見えたり。さてはいよいよ武光という人もありけり、縁起などいうものは多く真《まこと》とし難きものなれど、偽り飾れる疑ありて信《まこと》とし難しものの端々にかえって信とすべきものの現るる習いなることは、譬えば鍍金《めっき》せるものの角々に真の質《きじ》の見《あらわ》るるが如しなどおもう折しも、按摩《あんま》取りの老いたるが入り来りたり。眼|盲《し》いたるに如何でかかる山の上にはあるならんと疑いつ、呼び入れて問いただすに、秩父に生れ秩父に老いたるものの事とて世はなれたる山の上を憂しともせず、口に糊するほどのことは此地《ここ》にのみいても叶えば、雲に宿かり霧に息つきて幾許《いくばく》もなき生命を生くという。おかしき男かなと思いてさまざまの事を問うに、極めて石を愛《め》ずる癖ある叟《おじ》にて、それよりそれと話の次《ついで》に、平賀源内の明和年中大滝村の奥の方なる中津川にて鉱《かね》を採《と》りし事なども語り出でたり。鳩渓の秩父にて山を開かんと企てしことは早くよりその伝説《いいつたえ》ありて、今もその跡といえるが一処ならず残れるよしなれば、ほとほと疑いなきことなるが、知る人は甚だ稀なるようなり。功利に急なりし人の事とて、あるいは秩父の奥なんどにも思いを疲らして手をつけ足を入れしならん。
 按摩済む頃、袴を着けたる男また出で来りて、神酒を戴かるべしとて十三、四なる男《お》の児《こ》に銚子|酒杯《さかずき》取り持たせ、腥羶《なまぐさ》はなけれど式立ちたる膳部を据えてもてなす。ここは古昔《むかし》より女のあることを許さねば、酌するものなどすべて男の児なるもなかなかにきびきびしくて好し。神酒をいただきつつ、酒食のたぐいを那処《いずく》より得るぞと問うに、酒は此山《ここ》にて醸《かも》せどその他は皆山の下より上すという。人馬の費《ついえ》も少きことにはあらざるべきに盛なることなり。この山|是《かく》の如く栄ゆるは、ここの御神の御使いの御狗というを四方の人々の参り来て乞い求むるによれり。御神は伊奘諾伊奘冊二柱の神にましませば申すもかしこし、御狗とは狼をさしていう。もとより御狗を乞い求むるとて符牘のたぐいを受くるには止まれど、それに此山《ここ》の御神の御使の奇しき力籠れりとして人々は恐れ尊むめり。狼の和訓おおかみといえるは大神の義にて、恐れ尊めるよりの称《となえ》なれば、おもうに我邦のむかし山里の民どもの甚《いた》く狼を怖れ尊める習慣《ならわし》の、漸くその故を失ないながら山深きここらにのみ今に存《のこ》れるにはあらずや。
 我邦には獅子虎の如きものなければ、獣には先ず狼熊を最も猛しとす。されば狼を恐れて大神とするも然るべきことにて、熊野は神野の義、神稲をくましねと訓《よ》むたぐいを思うに、熊をくまと訓むはあるいは神の義なるや知るべからず。(或曰、くまは韓語、或曰、くまは暈《くま》にて月の輪のくま也。)ただ狼という文字は悪《あし》きかたにのみ用いらるるならいにて、豺狼、虎狼、狼声、狼毒、狼狠、狼顧、中山狼、狼※[#「冫+(餮−殄)」、第4水準2−92−45]、狼貪、狼竄、狼藉、狼戻、狼狽、狼疾、狼煙など、めでたきは一つもなき唐山《もろこし》のためし、いとおかし。いわゆる御狗を出すところは此山のみならず、来し路の宝登神社、贄川の猪狩明神、薄村の両神神社なども皆人の乞うに任せて与うという。秩父は山重なり谷深ければ、むかしは必ず狼の多かりしなるべく、今もなお折ふしは見ゆというのみか、此山《ここ》にては月々十九日に飯生酒など本社より八町ほど隔たりたるところに供置きて与うといえば、出で来ぬには限らぬなるべし、おそろしき事かななど寒月子と窃《ひそ》かに語り合いつつ、好きほどに酒杯《さかずき》を返し納めて眠りに就くに、今宵は蚊もなければ蚊屋も吊《つ》らで、しかも涼しきに過ぐれば夜被《よぎ》引被ぎて臥《ふ》す。室は紙障子引きたてしのみにて雨戸ひくということもせず戸の後鎖《しりざし》することもせざる、さすがに御神の御稜威《みいづ》ありがたしと心に浸みて嬉しくおぼえ、胸の海浪おだやかに夢の湊に入る。
 九日、朝四時というに起き出でて手あらい口そそぎ、高き杉の樹梢《こずえ》などは見えわかぬほど霧深き暁の冷やかなるが中を歩みて、寒月子ともども本社に至り階《きざはし》を上りて片隅に扣《ひか》ゆ。朝々の定まれる業なるべし、神主|禰宜《ねぎ》ら十人ばかり皆|厳《おごそ》かに装束《しょうぞく》引きつくろいて祝詞《のりと》をささぐ。宮柱太しく立てる神殿いと広く潔《きよ》らなるに、此方《こなた》より彼方《かなた》へ二行《ふたつら》に点《とも》しつらねたる御燈明《みあかし》の奥深く見えたる、祝詞の声のほがらかに澄みて聞えたる、胆にこたえ身に浸《し》みて有りがたく覚えぬ。やがて退《まか》り立ちて、ここの御社の階《はし》の下の狛犬も狼の形をなせるを見、酒倉の小さからぬを見などして例のところに帰り、朝食《あさげ》をすます。
 これよりなお荒川に沿いて上り、雁坂《かりさか》峠を越えて甲斐《かい》の笛吹《ふえふき》川の水上に出で、川と共に下りて甲斐に入り、甲斐路を帰らんと予《かね》ては心の底に思い居けるが、ここにて問い糺《ただ》せば、甲斐の川浦という村まで八里八町人里もなく、草高くして路もたえだえなりとの事に望を失ない、引返さんと心をきわむ。日本武尊の常陸《ひたち》より甲斐の酒折に至りたまいし時は、いずれの路を取り玉いしやらん。常陸より甲斐に至らんに武蔵《むさし》よりせんには、荒川に沿いて上ると玉川に沿いて上るとの二路あり。三峰、武光、八日見山を首とし、秩父には尊の通り玉いし由のいい伝え処々に存《のこ》れるが、玉川の水上即ち今の甲斐路にも同じようの伝説《いいつたえ》なきにあらず。また尊の酒折より武蔵上野を経て信濃《しなの》に至りたまいし時は、いずくに出で玉いしならん。酒折より笛吹川に沿うて上りたまいしならんには必ず秩父を経たまいしなるべし。雁坂の路は後北条氏頃には往来絶えざりしところにて、秩父と甲斐の武田氏との関係浅からざりしに考うるも、甚《はなは》だ行き通いし難からざりし路なりしこと推測《おしはか》らる。家を出ずる時は甲斐に越えんと思いしものを口惜《くちおし》とはおもいながら、尊の雄々しくましませしには及ぶべくもあらねば、雁坂を過ぎんことは思い断えつ、さればとて大日向の太陽寺へ廻らん心も起さず、ひた走りに走り下りて大宮に午餉《ひるげ》す。ふたたび郷平《ごうへい》橋を渡りつつ、赤平川を郷平川ともいうは、赤平の文字もと吾平と書きたるを音もて読みしより、訛《なま》りて郷平となりたるなりという昔の人の考えを宜《うべ》ない、国神野上も走りに走り越し、先には心づかざりし道の辺に青石の大なる板碑立てるを見出しなどしつ、矢那瀬寄居もまた走り過ぎ、暗くなりて小前田に泊りたり。
 十日、宿を立出でて長善寺の傍《かたえ》より左へ横折れ、観音堂のほとりを過ぎ、深谷《ふかや》へと心ざす。幸に馬車の深谷へ行くものありければ、武蔵野というところよりそれに乗りて松原を走る。いと広き原にて、行けども行けども尽くることなし。名を問えば櫛挽の原という。夕日さす景色も淋し松たてる岡部の里と、為相《ためすけ》の詠めるあたりもこの原つづきなり。よっておもうに、岡部の里をよめる歌には松をよめるが多きようなり。深谷に着きて汽車に打乗り、鴻巣《こうのす》にいたりて汽車を棄て、人力車《くるま》を走らせて西吉見の百穴《あな》に人間の古《むかし》をしのび、また引返して汽車に乗り、日なお高きに東京へ着き、我家のほとりに帰りつけば、秩父より流るる隅田川の水笑ましげに我が影を涵《ひた》せり。



底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「太陽」博文館
   1899(明治32)年2月
初出:「太陽」博文館
   1899(明治32)年2月
※表題は底本では、「知々夫《ちちぶ》紀行」となっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング