記稿にしるせる如く、今も昔の定めを更えで二七の日をば用いるなるべし。昼餉を終えたれど暑さ烈しければ、二時過ぐる頃ようやく立出ず。
四方《よも》の山々いよいよ近づくを見るのみ、取り出でていうべき眺望《ながめ》あるところにも出会わねば、いささか心も倦《う》みて脚歩《あし》もたゆみ勝ちに辿り行くに、路の右手に大なる鳥居立ちて一条《ひとすじ》の路ほがらかに開けたるあり。里の嫗《おうな》に如何なる神ぞと問えば、宝登神社という。さては熊谷の石原にしるしの碑の立てりしもこの御神のためなるべし、ことさらにまいる人も多しとおぼゆるに、少しの路のまわりを厭《いと》いて見過ごさんもさすがなりと、大路を横に折れて、蝉の声々かしましき中を山の方へと進み入るに、少時して石の階《きざはし》数十級の上に宮居見えさせ玉う。色がらすを嵌《は》めたる「ぶりっき」の燈籠の、いと大きくものものしげなるが門にかけられたるなど、見る眼いたく、あらずもがなとおもわる。境内広く、社務所などもいかめしくは見えたれど、宮居を初めよろずのかかり、まだ古びねばにや神々しきところ無く、松杉の梢を洩りていささか吹く風のみをぞなつかしきものにはおぼえける。ここの御社の御前の狛犬《こまいぬ》は全く狼の相《すがた》をなせり。八幡《やわた》の鳩、春日《かすが》の鹿などの如く、狼をここの御社の御使いなりとすればなるべし。
さてこれより金崎へ至らんとするに、来し路を元のところまで返りて行かんもおかしからねばとて、おおよその考えのみを心頼みに、人にさえ逢えば問いただして、おぼつかなくも山添いの小径の草深き中を歩むに、思いもかけぬ草叢《くさむら》より、けたたましき羽音させていと烈しく飛びたつものあり。何ぞと見るに雉子《きじ》の雌鳥《めんどり》なれば、あわれ狩する時ならばといいつつそのままやみしが、大路を去る幾何《いくばく》もあらぬところに雉子などの遊べるをもておもえば、土地《ところ》のさまも測り知るべきなり。
かくてようやく大路に出でたる頃は、さまで道のりをあゆみしにあらねど、暑《あつさ》に息もあえぐばかり苦しくおぼえしかば、もの売る小家の眼に入りたるを幸とそこにやすむ。水湯茶のたぐいをのみ飲まんもあしかるべし、あつき日にはあつきものこそよかるべけれとて、寒月子くず湯を欲しとのぞめば、あるじの老媼《おうな》いなかうどの心|緩《ゆる》やかに、まことにあしき病なんど行わるる折なれば、くず湯召したまわんとはよろしき御心づきなり、湯の沸えたぎらばまいらせんほどに、しばし待ちたまえといいて、傍《かたえ》の棚をさぐりて小皿をとりいだし懐にして立出でしが、やがて帰り来れるを見れば白き砂糖をその皿に山と盛りて手にしたり。くず湯に入るべき白き砂糖のなかりければ、老の足のたどたどしくも母屋がり行きもどりせしとは問わでも知らるるに、ここらのさびしさ、人の優しさ目のあたり見ゆ。ただし今の世の風に吹かれたる若き人はこうもあらぬなるべし。
かくてくず湯も成りければ、啜る啜るさまざまの物語する序《ついで》に、氷雨塚というもののこのあたりにあるべきはずなるが知らずやと問えば、そのいわれはよくも知らねど塚は我が家のすぐ横にあり、それその竹の一《ひ》[#(ト)]|簇《むら》しげれるが、尋ねたまうものなりと指さし示す。氷の雨塚とは太古《おおむかし》のいまだ開けざる頃の人の住家もしくは墓穴のたぐいを、むかし氷の雨降りたる時人々の隠れたりしところならんと後のものの思いしより呼びならわせし名にやあるべき、詳《くわし》くは考うべき由なし。大淵、小柱、金崎、皆野、久那、寺尾等秩父郡の村々には氷雨塚と称うるもの甚《はなは》だ多く、大野原には百八塚などいうものあり、また贄川《にえがわ》、日野あたりには棒神と唱えて雷槌《いかずち》を安置せるものありと聞きしまま、秩父へ来し次手《ついで》には、おおむかしのかたみの氷の雨塚というもののさまをも見おぼえおかんとおもいしまでなりしが、休めるところの鼻のさきにその塚ありと聞きては、心もはずみて興を増しつ、身を起してそこに行き見るに、塚は小高き丘をなして、丘の上には翠の葉かげ濃《こま》やかに竹美しく生い立ちたり。塚のやや円形《まるがた》に空虚《うつろ》にして畳二ひら三ひらを敷くべく、すべて平めなる石をつみかさねたるさま、たとえば今の人の煉瓦《れんが》を用いてなせるが如し。入口の上框《あがりかまち》ともいうべきところに、いと大なる石を横たえわたして崩れ潰《つい》えざらしめんとしたる如きは、むかしの人もなかなかに巧みありというべし。寒月子の図も成りければ、もとのところに帰り、この塚より土器の欠片《かけ》など出したる事を耳にせざりしやと問えば、その様《よう》なることも聞きたるおぼえあり、なお氷雨塚はここより少しばかり南へ行きたる処の道の東側なる商家のうしろに二ツほどありという。さらばそれも見んとて老媼《おうな》にわかれ立出で、それとおぼしき家にことわりいいて、突《つ》と裏の方に至り見るに、大さのやや異なるのみにて、ここのもそのさま前のと同じく、別に見るべきところもなし。ただここにはそれと知れたる外に、穴の口全く埋もれしままにて、いまだ掘発《ほりおこ》さざるがありて、そぞろに人の事を好む心を動かす。されど敢て乞うて掘るべくもあらねば、そのままに見すてて道を急ぎ、国神村というに至る。この村の名も、国神塚といえるがこのあたりにあるより称えそめしなるべし。
今宵《こよい》は大宮に仮寝の夢を結ばんとおもえるに、路程《みちのり》はなお近からず、天《そら》は雨降らんとし、足は疲れたれば、すすむるを幸に金沢橋の袂《たもと》より車に乗る。流れの上へ上へとのぼるなれど、路あしからねば車も行きなずまず。とかくするうち夏の夕の空かわりやすく、雨雲|天《そら》をおおいしと見る程もなく、山風ざわざわと吹き下し来て草も木も鳴るとひとしく、雨ばらばらと落つるやがて車の幌もかけあえぬまに篠《しの》つく如くふり出しぬ。赤平川の鉄橋をわたる頃は、雷さえ加わりたればすさまじさいうばかりなく、おそるおそる行くての方を見るに、空は墨より黒くしていずくに山ありとも日ありとも見えわかず、天地《あめつち》一つに昏《くら》くなりて、ただ狂わしき雷、荒ぶる雨、怒れる風の声々の乱れては合い、合いてはまた乱れて、いずれがいずれともなく、ごうごうとして人の耳を驚かし魂をおびやかすが中に、折々雲裂け天《そら》破れて紫色《むらさき》の光まばゆく輝きわたる電魂《いなだま》の虚空に跳り閃く勢い、見る眼の睛《ひとみ》をも焼かんとす。ところは寂びたり、人里は遠し、雨の小止をまたんよすがもなければ、しとど降る中をひた走りに走らす。ようやく寺尾というところにいたりたる時、路のほとりに一つ家の見えければ、車ひく男駆け入りて、おのれらもいこい、我らをもいこわしむ。男らの面を見れば色もただならず、唇までも青みたり。牛馬に等しき事して世をわたるいやしきものながら、同じ人なればさすがにあわれに覚ゆ。我らのほかにも旅人三人ばかり憩い居けるが、口々にあらずもがなのおそろしき雨かなとつぶやき、この家の主が妻は雷をおそれて病める人のようにうちふしなやむ。
されどとかくする中、さしもの雷雨もいささか勢弱りければ、夜に入らぬ中にとてまた車を駛《は》せ、秩父橋といえるをわたる。例の荒川にわたしたるなれば、その大なるはいうまでもなく、いといかめしき鉄の橋にて、打見たるところ東京なる吾妻《あずま》橋によく似かよいたる節あり。同じ人の作りたるなりというも、まことにさもあるべしとうけがわる。ほどなく大宮につきて、関根屋というに宿かれば、雨もまたようやく止みて、雲のたえだえに夕の山々黒々と眼近くあらわれたり。ここは秩父第一の町なれば、家数も少からず軒なみもあしからねど、夏ながら夜の賑《にぎ》わしからで、燈の光の多く見えず、物売る店々も門の戸を早く鎖《とざ》したるが多きなど、一つは強き雨の後なればにもあるべけれど、さすがに田舎びたりというべし。この日さのみ歩みしというにはあらねど、暑かりしこととていたく疲れたるに、腹さえいささか痛む心地《ここち》すれば、酒も得飲まで睡《ねむ》りにつく。
八日、朝餉《あさげ》を終えて立出で、まず妙見尊の宮に詣ず。宮居は町の大通りを南へ行きて左手にあり。これぞというべきことはなけれど樹立《こだち》老いて広前もゆたかに、その名高きほどの尊さは見ゆ。中古《なかむかし》の頃この宮居のいと栄えさせたまいしより大宮郷というここの称えも出で来りしなるべく、古くは中村郷といいしとおぼしく、『和名抄』に見えたるそのとなえ今も大宮の内の小名に残れりという。この祠の祭の行わるるときは、御花圃とよぶところにて口々に歌など唱いながら、知る知らぬ男女ども、こなた行き、かなた行きして、会いつ別れつしつつ相戯れて遊びくらすを習いとすとかや。かかるならいは、よその国々も少なからず、むかしの「かがい」ということなどの名残にもやあるべき。磐城《いわき》の相馬《そうま》のは流山ぶしの歌にひびき渡りて、その地に至りしことなき人もよく知ったることなるが、しかも彼処といい此処といい、そのまつる所のものの共に妙見尊なるいとおかしく、相馬も将門《まさかど》にゆかりあり、秩父も将門にゆかりある地なるなど、いよいよ奇《くす》し。
やがて立出でて南をむきて行くに、路にあたりていと大きなる山の頭を圧す如くに峙《そばだ》てるが見ゆ。問わでも武甲山《ぶこうさん》とは知らるるまで姿雄々しくすぐれて秀《ひい》でたり。横瀬、大宮、上影森、下影森、浦山、上名栗、下名栗の七村に跨《またが》れるといえる、まことにさもあるべし。この山のとなえをいつの頃よりか武甲と書きならわししより、終《つい》に国の名の武蔵の文字と通わせて、日本武尊《やまとたけるのみこと》東夷《あずまえびす》どもを平げたまいて後|甲冑《よろいかぶと》の類をこの山に埋めたまいしかは、国を武蔵と呼び山を武甲というなどと説くものあるに至れり。説のいつわりなるべきは誰しも知るところなれど、山の頂に日本武尊をいつきまつりありなんどするまま、なおあるいは然らんとおもう人もなきにあらず。されど文字も古くは武光とのみ書きて武甲とは書かねば、強言《しいごと》そのよりどころを失うというべし。さてまたひそかにおもうに、武光のとなえも甚だ故なきに似て、地理の書などにもその説を欠けり。けだし疑うらくはここらを領せし人の名などより、たけ光の庄、たけ光の山などとの称の起りたるならんか。いと古くより秩父の郡に拠《よ》りて栄えたる丹の党には、その初めてここに来りし丹治比武信、また初めてここを領せし武経などの如く、武の字を名につけたるもの多ければ、あるいは武光というものもありしかと思わる。ただし地の名より人の名の起れる例《ためし》は多けれど、人の名より地の名の起れる例はいと少ければ、武光は人の名ならんとの考えもいと力なしなど思いつつ、桑圃の中の一すじ路を行くに、露もまだ乾ぬ桑の葉の上吹く朝風いと涼しく、心地よきこというばかりなし。武光山より右にあたりて山々連なり立てるが中に、三峰《みつみね》は少しく低く黒みて見ゆ。それより奥の方、甲斐境《かいざかい》信濃境の高き嶺々重なり聳《そび》えて天《そら》の末をば限りたるは、雁坂十文字《かりさかじゅうもんじ》など名さえすさまじく呼ぶものなるべし。
進み進みて下影森を過ぎ上影森村というに至るに、秩父二十八番の観音へ詣らんにはここより入るべしと、道のわかれに立札せるあり。二十八番の観音は、その境内にいと深くして奇しき窟あるを以て名高きところなれば、秩父へ来し甲斐《かい》には特にも詣らんかとおもいしところなり。いざとて左のかたの小き径に入る。枝路のことなれば闊《ひろ》からず平かならず、誰《た》が造りしともなく自然《おのず》と里人が踏みならせしものなるべく、草に埋もれ木の根に荒れて明らかならず、迷わんとすること数次《しばしば》なり。山沿いの木下蔭小暗きあたりを下ること少時にして、
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