心忙しく進ましむ。明戸を出はずるる頃、小さき松山の行く手にありて、それにかかれる坂路の線《いと》の如くに翠の影の中に入れるさま、何の事はなけれど繕《つくろ》わぬ趣ありておもしろく見えければ、寒月子はこれを筆に写す。おとう坂というところとかや。菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがたければ、鍛冶する片手わざに菓子などならべて売れる家あるを見て立寄りて憩《いこ》う。湯をと乞うに、主人《あるじ》の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆《あき》れて打まもるに、そを火の上に懸るとひとしく、主人|吹革《ふいごう》もて烈《はげ》しく炭火を煽《あお》り、忽地にして熱き茶をすすめくれたる、時に取りておかしくもまた嬉しくもおぼえぬ。田中という村にて日暮れたれば、ここにただ一軒の旅舎《やど》島田屋というに宿る。間《あい》の宿《しゅく》とまでもいい難きところなれど、幸にして高からねど楼あり涼風を領すべく、美《うま》からねど酒あり微酔を買うべきに、まして膳の上には荒川の鮎《あゆ》を得たれば、小酌《しょうしゃく》に疲れを休めて快く眠る。夜半の頃おい神鳴り雨過ぎて枕に通う風も涼しきに、家居続ける東京ならねばこそと、半《なかば》は夢心地に旅のおかしさを味う。
七日、朝いと夙《はや》く起き出でて、自ら戸を繰り外の方を見るに、天《そら》いと美わしく横雲のたなびける間に、なお昨夜の名残の電光《いなびかり》す。涼しき中にこそと、朝餉《あさげ》済ますやがて立出ず。路は荒川に沿えど磧《かわら》までは、あるは二、三町、あるいは四、五町を隔てたれば水の面を見ず。少しずつの上り下りはあれど、ほとほと平なる路を西へ西へと辿《たど》り、田中の原、黒田の原とて小松の生いたる広き原を過ぎ、小前田というに至る。路のほとりにやや大なる寺ありて、如何にやしけむ鐘楼はなく、山門に鐘を懸けたれば二人相見ておぼえず笑う。九時少し過ぐる頃寄居に入る。ここは人家も少からず、町の彼方《かなた》に秩父の山々近く見えて如何《いか》にも田舎びたれど、熊谷より大宮郷に至る道の中にて第一の賑わしきところなりとぞ。さればにや氷売る店など涼しげによろずを取りなして都めかしたるもあり。とある店に入り、氷に喉《のんど》の渇《かわき》を癒《いや》して、この氷いずくより来るぞと問えば、荒川にて作るなりという。隅田川の水としいえば黄ばみ濁りて清からぬものと思い馴《な》れたれど、水上にて水晶のようなる氷をさえ出すかと今更の如くに、源の汚れたる川も少く、生れだちより悪き人の鮮《すくな》かるべきを思う。ここの町よりただ荒川|一条《ひとすじ》を隔《へだ》てたる鉢形村といえるは、むかしの鉢形の城のありたるところにて、城は天正《てんしょう》の頃、北条氏政《ほうじょううじまさ》の弟|安房守《あわのかみ》氏邦の守りたるところなれば、このあたりはその頃より繁昌したりと見ゆ。
寄居を出離れて行くこと少時にして、水の流るるとおぼしき音の耳に入れば、さては道と川と相近づきたるかと疑いつつ行くに、果して左の方に水の光り見えたり。問わずして荒川とは知るものから、昨日と今日とは見どころ異《かわ》れば同じ流れながら如何なるさまをかなせると、路より少し左に下る小径のあるにまかせて伝い行くに、たちまちにしてささやかなる家を得たり。家は数十丈の絶壁にいと危くも桟《かけ》づくりに装置《しつら》いて、旅客が欄に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》り深きに臨みて賞覧を縦《ほしいまま》にせんを待つものの如し。こはおもしろしと走り寄りて見下せば、川は開きたる扇の二ツの親骨のように右より来りて折れて左に去り、我が立つところの真下の川原は、扇の蟹眼釘《かにめ》にも喩《たと》えつべし。ところの名を問えば象が鼻という。まことにその名|空《むな》しからで、流れの下にあたりて長々と川中へ突き出でたる巌のさま、彼の普賢菩薩《ふげんぼさつ》の乗りもののおもかげに似たるが、その上には美わしき赤松ばらばらと簇立《むらだ》ち生いて、中に聖天尊の宮居神さびて見えさせ給える、絵を見るごとくおもしろし。川は巌の此方《こなた》に碧《みどり》の淵をなし、しばらく澱《よど》みて遂に逝《ゆ》く。川を隔てて遥《はるか》彼方には石尊山白雲を帯びて聳《そび》え、眼の前には釜伏山の一[#(ト)]つづき屏風《びょうぶ》なして立つらなれり。折柄《おりから》川向の磧には、さしかけ小屋して二、三十人ばかりの男|打集《うちつど》い、浅瀬の流れを柵して塞き、大きなる簗《やな》をつくらんとてそれそれに働けるが、多くは赤はだかにて走り廻れる、見る眼いとおかし。ここに※[#「田+比」、第3水準1−86−44]奈耶迦天を祀《まつ》れるは地の名に因《ちな》みてしたるにやあら
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