知々夫紀行
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)究《きわ》め
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)秩父|三峰《みつみね》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鈞のつくり」、第3水準1−14−75]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)一[#(ト)]つづき
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八月六日、知々夫の郡へと心ざして立出ず。年月隅田の川のほとりに住めるものから、いつぞはこの川の出ずるところをも究《きわ》め、武蔵禰乃乎美禰と古《いにしえ》の人の詠《よ》みけんあたりの山々をも見んなど思いしことの数次《しばしば》なりしが、ある時は須田の堤の上、ある時は綾瀬の橋の央《なかば》より雲はるかに遠く眺めやりし彼《か》の秩父嶺の翠色《みどり》深きが中に、明日明後日はこの身の行き徘徊《たもとお》りて、この心の欲しきまま林谷に嘯《うそぶ》き傲《おご》るべしと思えば、楽しさに足もおのずから軽く挙るごとくおぼゆ。牛頭山前よりは共にと契《ちぎ》りたる寒月《かんげつ》子と打連れ立ちて、竹屋の渡りより浅草にかかる。午後二時というに上野を出《い》でて高崎におもむく汽車に便《たよ》りて熊谷まで行かんとするなれば、夏の日の真盛りの頃を歩むこととて、市中《まちなか》の塵埃の※[#「鈞のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》い、馬《うま》車《くるま》の騒ぎあえるなど、見る眼あつげならざるはなし。とある家にて百万遍の念仏会を催し、爺嫗《じじばば》打交りて大なる珠数を繰りながら名号唱えたる、特に声さえ沸ゆるかと聞えたり。
上野に着きて少時待つほどに二時となりて汽車は走り出でぬ。熱し熱しと人もいい我も喞《かこ》つ。鴻巣《こうのす》上尾《あげお》あたりは、暑気《あつさ》に倦《う》めるあまりの夢心地に過ぎて、熊谷という駅夫の声に驚き下りぬ。ここは荒川近き賑《にぎ》わえる町なり。明日は牛頭天王の祭りとて、大通りには山車小屋をしつらい、御神輿《おみこし》の御仮屋をもしつらいたり。同じく祭りのための設《もう》けとは知られながら、いと長き竿を鉾立に立てて、それを心にして四辺に棒を取り回し枠の如くにしたるを、白布もて総て包めるものありて、何とも悟り得ず。打見たるところ譬《たと》えば糸を絡う用にすなる※[#「竹かんむり/隻」、第3水準1−89−69]子《いとわく》というもののいと大なるを、竿に貫《ぬ》きて立てたるが如し。何ぞと問うに、四方幕というものぞという。心得がたき名なり。
石原というところに至れば、左に折るる路ありて、そこに宝登山《ほどさん》道としるせる碑《いし》に対《むか》いあいて、秩父|三峰《みつみね》道とのしるべの碑立てり。径路《こみち》は擱《お》きていわず、東京より秩父に入るの大路は数条ありともいうべきか。一つは青梅線の鉄道によりて所沢に至り、それより飯能《はんのう》を過ぎ、白子より坂石に至るの路《みち》なり。これを我野通《あがのどお》りと称えて、高麗《こま》より秩父に入るの路とす。次には川越《かわごえ》より小川にかかり、安戸に至るの路なり。これを川越通りと称え、比企《ひき》より秩父に入るの路とす。中仙道熊谷より荒川に沿い寄居《よりい》を経て矢那瀬に至るの路を中仙道通りと呼び、この路と川越通りを昔時《むかし》は秩父へ入るの大路としたりと見ゆ。今は汽車の便《たより》ありて深谷《ふかや》より寄居に至る方、熊谷より寄居に至るよりもやや近ければ、深谷まで汽車にて行き越し、そこより馬車の便りを仮《か》りて寄居に至り、中仙道通りの路に合する路を人の取ることも少からずと聞く。同じ汽車にて本庄《ほんじょう》まで行き、それより児玉《こだま》町を経て秩父に入る一路は児玉郡よりするものにて、東京より行かんにははなはだしく迂《う》なるが如くなれども、馬車の接続など便よければこの路を取る人も少からず。上州の新町にて汽車を下り、藤岡より鬼石にかかり、渡良瀬《わたらせ》川を渡りて秩父に入るの一路もまた小径にあらざれど、東京よりせんにはあまりに迂遠《まわりどお》かるべし。我野、川越、熊谷、深谷、本庄、新町以上合せて六路の中、熊谷よりする路こそ大方《おおかた》は荒川に沿いたれば、我らが住家のほとりを流るる川の水上と思うにつけて興も多かるべけれと択び定め来しが、今この岐路《わかれじ》にしるべの碑のいと大きなるが立てられたるを見ては、あるが中にも正しき大路を取りたるかとおぼえて心嬉し。
広瀬、大麻生、明戸などいえる村々が稲田桑圃の間を過ぎて行くうち、日はやや傾きて雨持つ雲のむずかしげに片曇りせる天《そら》のさま、そぞろに人をして暑さを厭《いと》う暇もなく
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