んなど思いつづくるにつけて、竹屋の渡しより待乳山《まつちやま》あたりのありさま眼に浮び、同じ川のほとりなり、同じ神の祠《ほこら》なれど、此処と彼処とのおもむきの違えば違うものよなど想いくらべて、そぞろに時を移せしが、寒月子の図も成りたれば、いざとて立ち出ず。
 末野を過ぐる頃より平地ようやく窄《せばま》り、左右の山々近く道に逼《せま》らんとす。やがて矢那瀬というに至れば、はや秩父の郡なり。川中にいと大なる岩の色|丹《あか》く見ゆるがあり。中凹みていささか水を湛《たた》う。土地《ところ》の人これを重忠《しげただ》の鬢水と名づけて、旱《ひでり》つづきたる時こを汲《く》み乾《ほ》せば必ず雨ふるよしにいい伝う。また二つ岩とて大なる岩の川中に横たわれるあり。字《あざ》滝の上というところにかかれる折しも、真昼近き日の光り烈《はげ》しく熱さ堪えがたければ、清水を尋ねて辛くも道の右の巌陰に石井を得たり。さし当りては鬢水よりもこれこそ嬉しけれと、汲みて喉《のんど》を潤おしつ、この井に名ありやと問えばなしという。名のなくてすみぬるも心にくし、ただやすらかに巌陰の清水と名づけばやなど戯れて過ぎ、やがて本野上に着く。
 おのずからなる石の文理《あや》の尉姥鶴亀なんどのように見ゆるよしにて名高き高砂石といえるは、荒川のここの村に添いて流るるあたりの岸にありと聞きたれば、昼餉《ひるげ》食《とう》べにとて立寄りたる家の老媼《おうな》をとらえて問い質《ただ》すに、この村今は赤痢《せきり》にかかるもの多ければ、年若く壮《さか》んなるものどもはそのために奔《はし》り廻りて暇なく、かつはまた高砂石見せまいらする導《しるべ》せんとて川中に下り立ち水に浸りなどせんは病を惹《ひ》くおそれもあれば、何人か敢《あえ》て案内しまいらせん、ましてその路に当りて仮の病院の建てられつれば、誰人も傍《かたえ》を過《よ》ぎらんをだに忌わしと思うべし、道しるべせん男得たまうべきたよりはなしとおぼせという。要なき時疫《えやみ》の恨めしけれど是非《ぜひ》なく、なおかにかくとその石のさまなど問うに、強て見るべきほどのものとも思われねば已《や》む。今日は市《いち》立つ日とて、秤《はかり》を腰に算盤《そろばん》を懐にしたる人々のそこここに行きかい、糸繭の売買《うりかい》に声かしましく罵《ののし》り叫《わめ》く。文化文政の頃に成りたる風土
前へ 次へ
全19ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング