ひ給ひしにやと問ふ。然《さ》なりと答ふれば、何処《いづこ》にて求め給ひしやと云ふ。汝《そなた》が嘗て我に誇り示したる鮒釣の竿を購《か》ひし家にてと云へば、弟は羨ましげに眼を光らせて左視右視《とみかうみ》暫らく打護り居けるが、やがて大きなる声して、良き竿を購《か》ひ給ひしかな、かくては明日の釣りに兄上最も多く魚を獲給ふべし、我等は遠く及ぶべからず、されど其《そ》は兄上の釣り給ふこと我等より巧みなるがためにはあらず、竿の力、装置《しかけ》の力の為ならんのみ、我等にも是の如き竿と装置《しかけ》とだにあらば、やはか兄上に劣るべきと、喞言がましく云ひ罵る。然《さ》ばかり明日の釣りに負けまじと思はば汝も新に良き竿を求めよかしと云へば、雀躍《こをどり》して立出で行きしが、時経て帰り来りしを見れば、おもしろからぬ色をなせり。如何にせしぞと問ふに、売りまゐらすべきもの無ければ七八日過ぎて後来玉へと彼の家にて云はれたりと、云ふ声さへもやゝ沈めり。然《さ》ありしか弟、さて釣竿買はで帰りしかと云へば、力無げに、然なりと云ふ。望を失ひて勢抜け、頭を垂れて物思へるさま、傍より観ていと哀れなれば、然《さ》のみ心を屈するにも及ばじ、釣竿売る家はかしこのみかは、茶屋町か材木町かとおぼえしが吾妻橋を渡りて左に折るゝあたりに中田といふ家あり、また広徳寺前には我が幼き頃より知れる藤作といへる名高き店あり、特に藤作は世の聞え人の用ゐも宜し、彼家《かしこ》に至らば良き品を得んこと疑ひあらじ、同じ業《わざ》をするものは相忌み相競ふものなれば、彼も励み此も励みて互に劣らじとする習ひなり、藤作にはまた藤作の妙無きことあらじと諭せば、やうやく心に勇みの湧きしにや、さらばとて復家を立出でぬ。
 時経れど弟は帰り来らず。朝より雲おぼつかなく迷ひ居し天《そら》は、遂に暮るゝ頃より雨を墜し来ぬ。此幾日といふもの楽みにして待ちに待ちたる明日の若《もし》雨ふらんには如何にかせんと、檐の玉水の音を聞くさへ物憂くおぼえて、幾度か椽端《えんばな》に出で雲のたゝずまひを仰ぎ見て打囁《うちつぶや》きしが、程経て雨の小止みしける時、弟はやうやく帰り来りぬ。此度はさきに帰りし時とは違ひて、家に入るや否や大きなる声を揚げて、兄上、はや明日の釣りに兄上には必ず負けまじ、兄上三十尾を獲たまはば我四十尾を獲ん、兄上五十尾を獲玉はば我六十尾を獲ん、兄上に中田の竿あれば我に藤作の竿あり、我が拙きか兄上が拙きか、釣りの道の技《わざ》くらべは明日こそとて、鼻息荒く誇る。それには答へで、好し好し、もはや灯火《ともしび》も点《つ》き人※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、167−3]も皆|夜食《ゆふげ》を終へたるに、汝のみ空言《あだごと》言ひ居て腹の膨るゝやらん、まづ/\飯食へと云ひて其竿を見るに、これもなか/\悪《あし》からぬ竿なり。されど我が物は傘の雪をも軽しとし、人の物は正宗にも疵を索むるが傾きやすき我等の心なれば、我は我が竿を良しといひ、弟はまたおのれのを良しと云ひて、互ひに視誉《みほ》め手誉めを敢てす。弟また袂より紙包みにしたる一の鉛錐を取り出して、兄上が購《か》ひ来玉ひし品は「にっける」を被《き》せたれば、陸にては甚《よ》く輝けど、水の中にては黒みて見ゆる気味ありて魚の眼を惹くこと少しとなり、我が購ひ来しは銀色なせる梨子肌のものなれば、陸にては輝かねど水の中にては白く見えて却つて魚の眼を惹くこと多かるべしとなり、且兄上がのは円※[#「※」は「つちへん+壽」、第3水準1−15−67、167−10]形にして我がものは球形なり、円※[#「※」は「つちへん+壽」、第3水準1−15−67、167−10]形|若《もしく》は方※[#「※」は「つちへん+壽」、第3水準1−15−67、167−10]形のものは其《そ》を水底に触れつ離れつせしむる折に臨み、水底にて立ちては仆れ立ちては仆るゝまゝ要無き響きの手に伝はりて悪《あし》し、球形のは水底に触るゝ時たゞ一たび其響き手に至るのみなれば、いと明らかにして好しと聞きぬ、如何にも道理《ことわり》あることにはあらずや、鉛錐は我が買ひ来しものこそ好けれと云ふ。よつて弟が購《か》ひ来りしものを視るに、銀色にして上光《うはびかり》無く、球形にして少しく肌|麁《あら》し。弟の言ふも一トわたり聞えたれど、光りの事は水の中に入りて陽《ひなた》のところ陰のところに二種のものの如何に見ゆべきやを検めでは何とも云ひ難し、又※[#「※」は「つちへん+壽」、第3水準1−15−67、167−10]形球形の説も道理には聞ゆれど、此頃の鼠頭魚釣りには鉛錐を水底に触れさせ離れさすやうなることを為さでもあるべく、たゞ及ぶたけ遠きところに鉛錐を投げ込みて漸く手元に引き近づくるのみなれば、響きの紛れの有る無しの
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