、此のあたりの地をば吾が家にて有ちし往時《むかし》もありければ、一ト言にても糺されしことの胸わろきにつけて、よし無き感を起しゝも烏滸がまし。
 あづま屋に着きたるに、時は思ひのほかに早くて猶未だ四時には至らず。小糠雨猶止まねど雲脚しきりに断れて西の方の空いよ/\明るく、朝風涼しく吹きて心地よきこと云ふばかり無し。我等の至れるを見て舟子は急がはしく立ち出で、柳橋の上に良久しく佇みて四方《よも》の空のさまを見めぐらす。今日の晴雨を詳《つまびらか》に考ふるなるべしと思へば、天《そら》のさま悪しゝ、舟出し難しなど云はれんには如何せんと、傍観《わきみ》する身の今さら胸轟かる。舟子やがて橋より下り来て、悪しかりし空のさまも悉く変りて今は少しも虞れ無くなりぬ、雨は必ず快く霽るべし、風は必ず好きほどに吹くべし、いざ船に召し玉へと心強く云へば、弟も我も笑みかたぶきて父上とも/″\船に乗る。
 纜縄《もやひ》解く、水※[#「※」は「たけかんむり+高」、第3水準1−89−70、170−16]《みさお》撞き張る、早緒取り掛けて櫓を推し初むれば、船は忽ち神田川より大川に出で、両国の橋間を過ぎ、見る目も濶き波の上に一羽の鴎と心長閑に浮びて下る。新大橋を過ぐる折から雨またばら/\と降り来。されど舟子の少しも心にかけぬさまなるに我等も驚かで、火を打《おこ》し湯を沸《たぎ》らしなどす。およそ船の遊びには、貴きも富めるも何くれと無く幇け合ひて働くを習ひとす。若し自ら高ぶり或は又全く心づかずして何事をも為さゞる者あれば、逸り気なる舟子などはこれを達磨さまと云ひて冷笑ふ。手も脚も無きといふ意《こころ》なるべし。また船の※[#「※」は「ふねへん+首」、第4水準2−85−77、171−4]《へさき》の方に我は顔して坐りなどする者をば将監様とよぶ。これは江戸の頃の水の上の司《つかさ》向井将監にかけて云へるにて、将監のやうに坐りて傲り高ぶれるといふ意なるべし。達磨と云はるゝがうしろめたくてにはあらねど、舟を行るのみにても人一人だけの働きなるに、猶飯を炊かせ味噌汁つくるまでの事※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、171−7]を悉く打任せたらんは余りに心無きわざなれば、慣れぬ手もとの覚束無くはあれど何よ彼よと働く。其むかし一人住みしける折の事も思ひ出されて、拙くもをかしきことのみ多し。
 風の向き好くな
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