せたからである。しかし主人はその質問には答えなかった。
「それを今更話したところで仕方がない。天下は広い、年月《つきひ》は際涯無《はてしな》い。しかし誰一人おれが今ここで談す話を虚言《うそ》だとも真実《ほんと》だとも云い得る者があるものか、そうしてまたおれが苦しい思いをした事を善いとも悪いとも判断してくれるものが有るものか。ただ一人遺っていた太郎坊は二人の間の秘密をも悉《くわ》しく知っていたが、それも今|亡《むな》しくなってしまった。水を指さしてむかしの氷の形を語ったり、空を望んで花の香《か》の行衛《ゆくえ》を説いたところで、役にも立たぬ詮議《せんぎ》というものだ。昔時《むかし》を繰返して新しく言葉を費《ついや》したって何になろうか、ハハハハ、笑ってしまうに越したことは無い。云わば恋の創痕《きずあと》の痂《かさぶた》が時節到来して脱《はが》れたのだ。ハハハハ、大分いい工合《ぐあい》に酒も廻《まわ》った。いい、いい、酒はもうたくさんだ。」
と云い終って主人は庭を見た。一陣《いちじん》の風はさっと起《おこ》って籠洋燈《かごランプ》の火を瞬《またた》きさせた。夜の涼しさは座敷に満ちた。
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