か》えまいとまでに慕《した》ったり、浮世を憂《う》いとまでに迷ったり、無い縁は是非もないと悟ったりしたが、まだどこともなく心が惹かされていたその古い友達の太郎坊も今宵は摧《くだ》けて亡くなれば、恋《こい》も起らぬ往時《むかし》に返った。今の今まで太郎坊を手放さずおったのも思えば可笑しい、その猪口を落して摧いてそれから種々《いろいろ》と昔時《むかし》のことを繰返して考え出したのもいよいよ可笑しい。ハハハハ、氷を弄《もてあそ》べば水を得るのみ、花の香《におい》は虚空《そら》に留まらぬと聞いていたが、ほんとにそうだ。ハハハハ。どれどれ飯《めし》にしようか、長話しをした。」
と語り了《おわ》って、また高く笑った。今は全く顔付も冴えざえとした平生《つね》の主人であった。細君は笑いながら聞き了りて、一種の感に打たれたかのごとく首を傾けた。
「それほどまでに思っていらしったものが、一体まあどうして別れなければならない機会《はめ》になったのでしょう、何かそれには深い仔細があったのでしょうが。」
とは思わず口頭《くちさき》に迸《はし》った質問で、もちろん細君が一方《ひとかた》ならず同情を主人の身の上に寄
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