坊太郎坊と主人が呼んでいたところのものであった。アッとあきれて夫婦はしばし無言のまま顔を見合せた。
 今まで喜びに満されていたのに引換《ひきか》えて、大した出来ごとではないが善いことがあったようにも思われないからかして、主人は快く酔《よ》うていたがせっかくの酔《よい》も興も醒《さ》めてしまったように、いかにも残念らしく猪口の欠けを拾ってかれこれと継《つ》ぎ合せて見ていた。そして、
「おれが醺《よ》っていたものだから。」
と誰《だれ》に対《むか》って云うでも無く独語《ひとりごと》のように主人は幾度《いくど》も悔《くや》んだ。
 細君はいいほどに主人を慰《なぐさ》めながら立ち上って、更に前より立優《たちまさ》った美しい猪口を持って来て、
「さあ、さっぱりとお心持よく此盃《これ》で飲《あが》って、そしてお結局《つもり》になすったがようございましょう。」
と慇懃《まめやか》に勧めた。が、主人はそれを顧みもせずやっぱり毀《こわ》れた猪口の砕片《かけら》をじっと見ている。
 細君は笑いながら、
「あなたにもお似合いなさらない、マアどうしたのです。そんなものは仕方がありませんから捨てておしまいなすって、サアーツ新規に召し上れな。」
という。主人は一向言葉に乗らず、
「アア、どうも詰《つ》まらないことをしたな。どうだろう、もう継げないだろうか。」
となお未練《みれん》を云うている。
「そんなに細《こま》かく毀れてしまったのですから、もう継げますまい。どうも今更仕方はございませんから、諦《あきら》めておしまいなすったがようございましょう。」
という細君の言葉は差当って理の当然なので、主人は落胆《がっかり》したという調子で、
「アア諦めるよりほか仕方が無いかナア。アアアア、物の命数には限りがあるものだナア。」
と悵然《ちょうぜん》として嘆《たん》じた。
 細君はいつにない主人が余りの未練さをやや訝《いぶか》りながら、
「あなたはまあどうなすったのです、今日に限って男らしくも無いじゃありませんか。いつぞやお鍋《なべ》が伊万里《いまり》の刺身皿《さしみざら》の箱を落して、十人前ちゃんと揃《そろ》っていたものを、毀したり傷物にしたり一ツも満足の物の無いようにしました時、傍《そば》で見ていらしって、過失《そそう》だから仕方がないわ、と笑って済ましておしまいなすったではありませんか。あの皿は古び
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