あふ》るるように見えた。
膳の上にあるのは有触《ありふ》れた鯵《あじ》の塩焼だが、ただ穂蓼《ほたで》を置き合せたのに、ちょっと細君の心の味が見えていた。主人は箸《はし》を下《くだ》して後、再び猪口を取り上げた。
「アア、酒も好い、下物《さかな》も好い、お酌はお前だし、天下|泰平《たいへい》という訳だな。アハハハハ。だがご馳走《ちそう》はこれっきりかナ。」
「オホホ、厭《いや》ですネエ、お戯謔《ふざけ》なすっては。今|鴫焼《しぎやき》を拵《こしら》えてあげます。」
と細君は主人が斜《ななめ》ならず機嫌《きげん》のよいので自分も同じく胸が闊々《ひろびろ》とするのでもあろうか、極めて快活《きさく》に気軽に答えた。多少は主人の気風に同化されているらしく見えた。
そこで細君は、
「ちょっとご免《めん》なさい。」
と云って座を立って退いたが、やがて鴫焼を持って来た。主人は熱いところに一箸つけて、
「豪気《ごうぎ》豪気。」
と賞翫《しょうがん》した。
「もういいからお前もそこで御飯《ごぜん》を食べるがいい。」
と主人は陶然《とうぜん》とした容子《ようす》で細君の労を謝して勧めた。
「はい、有り難う。」
と手短に答えたが、思わず主人の顔を見て細君はうち微笑《ほほえ》みつつ、
「どうも大層いいお色におなりなさいましたね、まあ、まるで金太郎のようで。」
と真《しん》に可笑《おかし》そうに云った。
「そうか。湯が平生《いつも》に無く熱かったからナ、それで特別に利いたかも知れない。ハハハハ。」
と笑った主人は、真にはや大分とろりとしていた。が、酒呑《さけのみ》根性《こんじょう》で、今一盃と云わぬばかりに、猪口の底に少しばかり残っていた酒を一息に吸い乾してすぐとその猪口を細君の前に突《つ》き出した。その手はなんとなく危《あやう》げであった。
細君が静かに酌をしようとしたとき、主人の手はやや顫《ふる》えて徳利の口へカチンと当ったが、いかなる機会《はずみ》か、猪口は主人の手をスルリと脱《ぬ》けて縁に落ちた。はっと思うたが及ばない、見れば猪口は一つ跳《おど》って下の靴脱《くつぬぎ》の石の上に打付《ぶつか》って、大片《おおきいの》は三ツ四ツ小片《ちいさい》のは無数に砕《くだ》けてしまった。これは日頃主人が非常に愛翫《あいがん》しておった菫花《すみれ》の模様の着いた永楽《えいらく》の猪口で、太郎
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