そかに自《みず》から慰めていた。」
と云いかけて再び言葉を淀《よど》ました。妻は興有りげに一心になって聞いている。庭には梧桐を動かしてそよそよと渡《わた》る風が、ごくごく静穏《せいおん》な合の手を弾《ひ》いている。
「頭がそろそろ禿げかかってこんなになってはおれも敵《かな》わない。過般《こないだ》も宴会《えんかい》の席で頓狂《とんきょう》な雛妓《おしゃく》めが、あなたのお頭顱《つむり》とかけてお恰好《かっこう》の紅絹《もみ》と解《と》きますよ、というから、その心はと聞いたら、地が透《す》いて赤く見えますと云って笑い転《ころ》げたが、そう云われたッて腹《はら》も立てないような年になって、こんなことを云い出しちゃあ可笑いが、難儀《なんぎ》をした旅行《たび》の談《はなし》と同じことで、今のことじゃあ無いからなにもかも笑って済《す》むというものだ。で、マア、その娘もおれの所へ来るという覚悟《かくご》、おれも行末はその女と同棲《いっしょ》になろうというつもりだった。ところが世の中のお定まりで、思うようにはならぬ骰子《さい》の眼《め》という習いだから仕方が無い、どうしてもこうしてもその女と別れなければならない、強いて情を張ればその娘のためにもなるまいという仕誼《しぎ》に差懸《さしかか》った。今考えても冷《ひや》りとするような突き詰めた考えも発《おこ》さないでは無かったが、待てよ、あわてるところで無い、と思案に思案して生きは生きたが、女とはとうとう別れてしまった。ああ、いつか次郎坊が毀れた時もしやと取越苦労《とりこしぐろう》をしたっけが、その通りになったのは情け無いと、太郎坊を見るにつけては幾度《いくたび》となく人には見せぬ涙《なみだ》をこぼした。が、おれは男だ、おれは男だ、一婦人《いっぷじん》のために心を労していつまで泣こうかと思い返して、女々《めめ》しい心を捨ててしきりに男児《おとこ》がって諦めてしまった。しかし歳《とし》が経《た》っても月が経っても、どういうものか忘れられない。別れた頃の苦しさは次第次第に忘れたが、ゆかしさはやはり太郎坊や次郎坊の言伝《ことづて》をして戯れていたその時とちっとも変らず心に浮ぶ。気に入らなかったことは皆《みな》忘れても、いいところは一つ残らず思い出す、未練とは悟《さと》りながらも思い出す、どうしても忘れきってしまうことは出来ない。そうかと云って
前へ 次へ
全11ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング