お持帰下さいまし、失礼でございますけれど差上げとうございます、ねえお父様、進上《あ》げたっていいでしょう、と取りなしてくれた。もとより惜むほどの貴いものではなし、差当っての愛想《あいそ》にはなる事だし、また可愛《かわい》がっている娘の言葉を他人《ひと》の前で挫《くじ》きたくもなかったからであろう、父《おや》は直《ただち》に娘の言葉に同意して、自分の膳にあった小いのをも併《あわ》せて贈《おく》ってくれた。その時老人の言葉に、菫《すみれ》のことをば太郎坊次郎坊といいまするから、この同じような菫の絵の大小二ツの猪口の、大きい方を太郎坊、小さい方を次郎坊などと呼んでおりましたが、一ツ離《はな》して献《あ》げるのも異なものですから二つともに進じましょう、というのでついに二つとも呉《く》れた。その一つが今|壊《こわ》れた太郎坊なのだ。そこでおれは時々自分の家で飲む時には必らず今の太郎坊と、太郎坊よりは小さかった次郎坊とを二ツならべて、その娘と相酌《あいじゃく》でもして飲むような心持で内々《ないない》人知らぬ楽みをしていた。またたまにはその娘に逢《あ》った時、太郎坊があなたにお眼にかかりたいと申しておりました、などと云って戯《たわむ》れたり、あの次郎坊が小生《わたくし》に対って、早く元のご主人様のお嬢様《じょうさま》にお逢い申したいのですが、いつになれば朝夕お傍に居られるような運びになりましょうかなぞと責め立てて困りまする、と云って紅《あか》い顔をさせたりして、真実《ほんとう》に罪のない楽しい日を送っていた。」
と古《いにし》えの賤《しず》の苧環《おだまき》繰《く》り返して、さすがに今更|今昔《こんじゃく》の感に堪《た》えざるもののごとく我《わ》れと我が額に手を加えたが、すぐにその手を伸して更に一盃を傾けた。
「そうこうするうち次郎坊の方をふとした過失《そそう》で毀してしまった。アア、二箇《ふたつ》揃っていたものをいかに過失とは云いながら一箇《ひとつ》にしてしまったが、ああ情無いことをしたものだ、もしやこれが前表《ぜんぴょう》となって二人が離ればなれになるような悲しい目を見るのではあるまいかと、痛《いた》くその時は心を悩《なや》ました。しかし年は若《わかい》し勢いは強い時分だったからすぐにまた思い返して、なんのなんの、心さえ慥《たしか》なら決してそんなことがあろうはずはないと、ひ
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