ろいろの世界を股にかける広い広い大きな渡海商いの世界から見ましょうなら、何人が斬れるでも無い一本の刀で癇癪《かんしゃく》の腹を癒《いや》そうとし、時節到来の暁は未練なく死のうまでよと、身を諦めて居らるる仁有らば、いさぎよくはござれど狭い、小さい、見て居らるる世界が小さく限られて、自然と好みも小さいかと存ずる。大海《だいかい》に出た大船の上で、一天の星を兜《かぶと》に被《き》て、万里の風に吹かれながら、はて知れぬ世界に対《むか》って武者振いして立つ、然様いう境界《きょうがい》もあるのでござりまするから」
と言いかけたる時、狗の鈴の音しきりに鳴りて、又此家に人の一人二人ならず訪《と》い来れる様子の感ぜらる。
此時主人は改めて大きくにッたりと笑って、其眼は客を正目《まさめ》に見ながら、
「如何にも手広い渡海商いは、まことに心地よいことでござろう。小さな癇癪などは忘るるほどのことでもござろう。然しナ、其の大海の上で万里の風に吹かれながら、真蒼《まっさお》の空の光を美しいと見て立っている時、これから帰り着くべき故郷の吾《わ》が家でノ、最愛の妻が明るうないことを仕居って、其召使が誤って……あらぬ男を引入れ、そして其のケチな男に手証の品を握って帰られた……と知ったなら、広い海の上に居ても、大腹中でも、やはり小さな癇癪《かんしゃく》が起らずには居まいがナ。」
と、三斗の悪水《おすい》は驀向《まっこう》から打澆《うちか》けられた。
客は愕然《がくぜん》として急に左の膝を一ト[#「ト」は小書き]膝引いて主人《あるじ》を一ト眼見たが、直に身を伏せて、少時《しばし》は頭《かしら》を上げ得無かった。然し流石《さすが》は老骨だ。
「恐れ入りました。」
と、一句、ただ一句に一切を片づけて了って、
「了休禅坊とは在俗中も出家後も懇意に致居りましたを手寄《たよ》りに、御尋致しましたるところ、御隔意無く種々御話し下され、失礼ながら御気象も御思召《おぼしめし》も了休御噂の如く珍しき御器量に拝し上げ、我を忘れて無遠慮に愚存など申上げましたが、畢竟《ひっきょう》は只今御話の一ト[#「ト」は小書き]品を頂戴致したい旨を申出ずるに申出兼ねて、何《なに》彼《かに》、右左、と御物語致し居りたる次第、但し余談とは申せ、詐《いつわ》り飾りは申したのではござりませぬ、御覧の如くの野人にござりまする。何卒了休禅坊御懇親
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