すように見守っている。女は自分の申出たことに何の手答のある言葉も無いのに堪えかねたか、やがて少し頭を擡《もた》げた。燐みを乞う切ない眼の潤み、若い女の心の張った時の常の血の上った頬の紅色《くれない》、誰が見てもいじらしいものであった。
「どうぞ、然様《そう》いう訳でございますれば、……の御帰りになりまする前までに、こなた様の御力を以て其品を御取返し下さいまするよう。」
と復《また》一度、心から頭を下げた。そして、
「御帰りの近々に逼って居りますことは、こなた様にも御存知の通り。御帰りになりますれば、日頃|御重愛《ごちょうあい》の品、御手ならしの品とて、しばらく御もてあそび無かった後ゆえ、直にも御心のそれへ行くは必定《ひつじょう》、其時其御秘蔵が見えぬとあっては、御方様の御申訳の無いはもとより、ひいては何の様なことが起ろうも知れませぬ。御方様のきつい御心配も並一通りではござりませぬ。それ故に、御方様の、たっての御願い、生命《いのち》にもかかることと思召《おぼしめ》して、どうぞ吾《わ》が手に戻るようの御計らいをと、……」
 生命にもかかるの一語は低い声ではあったが耳に立たぬわけには行かなかった。
「ナニ、生命にもかかる。」
 最高級の言葉を使ったのを福々爺は一寸|咎《とが》めた迄ではあるが、女に取ってはそれが言葉甲斐の有ったので気がはずむのであろう、やや勢込んで、
「ハイ、そうおッしゃられたのでござりまする。全く彼《あ》の笛が無いとありましては、わたくし共めまでも何の様な……」
「いや、聟《むこ》殿《どの》があれを二《に》の無いものに大事にして居らるるは予《かね》て知ってもおるが、……多寡が一管の古物《こぶつ》じゃまで。ハハハ、何でこのわし程のものの娘の生命《いのち》にかかろう。帰って申せ、わしが詫《わ》びてやる、心配には及ばぬとナ。女は夫を持つと気が小さくなるというが、娘の時のあれは困り者のほどな大気の者であったが、余程聟殿を大事にかけていると見えて、大層女らしくなり居ったナ。好いわ、それも夫婦中が細やかなからじゃ。ハハハハ。」
「…………」
「分らぬか、まだ。よいか、わしが無理借りに此方《こち》へ借りて来て、七ツ下《さが》りの雨と五十からの芸事、とても上りかぬると謗《そし》らるるを関《かま》わず、しきりに吹習うている中《うち》に、人の居らぬ他所《よそ》へ持って出ての
前へ 次へ
全34ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング