むるをもて名あり。稲荷より下の方一町ほどにして
○思川といふ潮入りの小溝あれど、船を通ずるに至らねば取り出でゝいふべくもあらぬものなり。思川の南数十歩して
○橋場の渡あり。橋場といふ地名は往時《むかし》隅田川に架したる大なる橋ありければ呼びならはしたりとぞ。石浜といへるは西岸の此辺《ここ》をさしていへるなるべし。むかし業平の都鳥の歌を咏《よ》みしも此地《ここ》のあたりならんといふ。こゝより下は、左に小野某の小松島園あり、右に小松宮御別邸あり。小松島園より下は少許《しようきよ》の草生地を隔てゝ墨田堤を望む花時の眺めおもしろく、白髯の祠《ほこら》の森も少しく見ゆ。
○寺島の渡は寺島村なる平作河岸《へいさくがし》より橋場の方へ渡る渡なり。平作河岸とは大川より左に入りて直《ただち》に堤下に至る小渠に傍《そ》へる地をいふ。平作河岸より下流に、また桜組製革場に沿ひて堤下に至るの小渠あり。これより東は今戸、西は寺島の間を流れて河水漸く南に去り、西深く東浅かりし勢変じて東深く西浅きに至る。
○長命寺の下、牛の御前祠の地先あたりは水|特《こと》に深くして、いはゆる
○墨田の長堤もまた直《ただち》に水を臨むをもて、陽春三月の頃は水の洋※[#二の字点、1−2−22]たると花の灼※[#二の字点、1−2−22]たると互に相映発して、絶好の画趣と詩興とを生ず。特《こと》に此辺より吾妻橋上流までの間は府内各学校の生徒ならびに銀行会社の役員等の端艇競争の場となるを以て、春秋の好季には堤上と水面とは共に士女|※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]噎《てんえつ》して、歓笑の声絶ゆる間もなく湧くに至る。
○竹屋の渡場は牛の御前祠の下流一町ばかりのところより今戸に渡る渡場にして、吾妻橋より上流の渡船場中《わたしばちゆう》最もよく人の知れるところなり。船に乗りて渡ること半途《なかば》にして眼を放てば、晴れたる日は川上遠く筑波を望むべく、右に長堤を見て、左に橋場今戸より待乳山を見るべし。もしそれ秋の夕なんど天の一方に富士を見る時は、まことにこの渡の風景一刻千金ともいひつべく、画人等の動《やや》もすればこの渡を画題とするも無理ならずと思はる。渡船の著するところに一渠の北西に入るあるは
○山谷堀《さんやぼり》にして、その幅甚だ濶からずといへども直《ただち》に日本堤の下に至るをもて、往時《むかし》は吉原通《よしわらがよい》をなす遊冶郎等のいはゆる猪牙船《ちよきぶね》を乗り込ませしところにして、「待乳沈んで梢のりこむ今戸橋、土手の相傘、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布」の唱歌のいひ起しは、正しくはこの渠のことをいへるなり。今もなほ南岸の人家に往時《むかし》の船宿のおもかげ少しは残れるがなきにあらず。
○待乳山は聖天の祠あるをもて墨堤より望みたる景いとよし。あはれとは夕越えて行く人も見よの茂睡《もすい》の歌の碑は知らぬ人もなく、……の多き文章を嘲つて、待乳山の五丁の碑ぢやアあるめえし、と某先生が戯れたまひしその碑の今に立てるもをかし。こゝの舞台は隅田川を俯視《ふし》すべくして、月夜の眺望《ながめ》四季共に妙に、雪のあしたに瓢酒《ひさござけ》を酌んで、詩を吟じ歌を案ぜんはいよ/\妙なり。仙骨あるものは登臨の快を取りて予が言の欺かざるを悟るべし。待乳山の対岸のやゝ下に
○三囲《みめぐり》祠あり。中流より望みてその華表《とりい》の上半のみ見ゆるに、初めてこれを見る人も猜《すい》してその三囲祠たるを知るべし。この祠の附近よりは川を隔てながら、特《こと》に近※[#二の字点、1−2−22]と浅草なる観音堂ならびに五重塔凌雲閣等を眺め得べし。またこのあたりの堤下、上は柳畑辺より下は三囲祠前の下流十間までの間は有名なる
○鯉釣場にして、いはゆる浅草川の紫鯉を産するところなれば、漁獲の数甚だ多からざるにかゝはらず釣客の綸《いと》を垂るゝもの甚だ少からず。川はこれより山の宿町、花川戸、小梅町、新小梅町の間を下りて吾妻橋に至るなるが、東岸の方の深かりしは漸く転じて、中流もしくは西の方の深からんとするの勢をなす。新小梅町と中《なか》の郷《ごう》との間、一渠東に入るもの
○枕橋、源森橋《げんもりばし》の下を過ぎて業平町に至る。この水路は狭けれども深くして、やゝ大なる船を通ずべく、業平町に至りて後左すれば、いはゆる
○曳船川に出で、田圃の間を北して遠く亀有に達し、なほ遠くは琵琶溜より中川に至る。但し源森川と曳船川との間には水門あり。また源森川の流れを追ふて右に行けば、いはゆる
○横川に出づ。横川は業平橋報恩寺橋長崎橋の下を経、総武鉄道汽車の発著所たる本所停車場の傍を過ぎ、北辻橋南にてかの隅田川と中川との連絡するところの竪川に会し、南辻橋菊川橋猿江橋の下を過ぎて小名木川に会し、扇橋その他の下を過ぎて十間川に会し、なほ南して木場に至る。されば源森川の一路はその関するところ甚だ少からざる重要の一路たり。他日市区改正の成らん暁には、この源森川と押上の六間川(あるいは十間川ともいふ)との間二町ほどの地は鑿《うが》たれて、二水たゞちに聯絡せらるべきはずなり。もし二水相通ずるに至れば、この川|直《ただち》に隅田川と中川とを連ぬることとなりて、加之《しかも》その距離竪川小名木川に比して甚だ短ければ、人※[#二の字点、1−2−22]の便利を感ずること一[#(ト)]方ならざるべし、さて枕橋を左に見捨てゝ大川を南に下り
○花川戸への渡場を過ぎ
○吾妻橋の下を経、左に中の郷、右に材木町を見て下れば、水漸く西岸に沿ふて深く東岸の方浅し。遊女の句に名高き
○駒形の駒形堂を右に見、駒形の渡船場を過ぎ、左には長屋|越《ごし》に番場の多田の薬師の樹立《こだち》を望みて下ること少許《しばし》すれば
○厩橋《うまやばし》に至る。厩橋の下、右岸には古《いにしえ》の米廩の跡なほ存し、唱歌にいはゆる「一番堀から二番堀云※[#二の字点、1−2−22]」の小渠数多くありて、渠ごとに皆水門あり。首尾の松はこのあたりに尋ぬべし。猪牙船《ちよきぶね》の製は既に詳しく知りがたく、小蒸気の煽りのみいたづらに烈しき今日、遊子の旧情やがては詩人の想像にも上《のぼ》らざるに至るべし。米廩敷地の内の一処に電燈会社拠りて立ち、天に冲《ちゆう》する烟突を聳《そび》えしめて黒烟を揚ぐ。本所側にありては電燈会社対岸の下に当りて東に入るの小渠あり。御蔵橋《みくらばし》これに架りて陸軍倉庫の構内に入る。米廩の下、浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠あり。
○須賀町地先を経、一屈折して蔵前通りを過ぎ、二岐となる。その北に入るものはいはゆる
○新堀《しんぼり》にして、栄久町《えいきゆうちよう》三筋町等に沿ひ、菊屋橋合羽橋等の下に至る。この一条の水路は甚だ狭隘《きようあい》にしてかつ甚だ不潔なれども、不潔物その他の運搬には重要なる位置を占むること、その不快を極むるところの一路なるをも忌み厭ふに暇《いとま》あらずして渠身不相応なる大船の数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》出入するに徴して知るべし。かつ浅草区一帯の地の卑湿にして燥《かわ》きがたきも、この一水路によりて間接に乾燥せしめらるゝこと幾許なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし。その西に入るものは猿屋町鳥越町等の間を経て、下谷竹町の東、浅草小島町の西に至る、これいはゆる
○三絃堀《しやみせんぼり》なるものなり。この一条の水路もまた不潔と狭隘とを以て人の厭ふところなるが、これまた湿気排除のためと漕運の便とのために重要の一路たらずんばあらず。元来下谷は卑湿の地にして、西に湯島本郷の高地を負ふをもて、一朝雨雪の大に降るに会へば高処の水は自ら低処に来りて、下谷は一大|瀦水地《ちよすいち》となるの観を呈す。就中《なかんずく》御徒士町仲徒士町竹町等は氾濫の中心となるの勢あり。されば三味線堀は今も既に不忍の池の余水を受くるといへども、なほこれを修治拡大して立派なる渠となし、また一路を分岐せしめて、竹町仲徒士町等を経て南の方秋葉の原鉄道貨物取扱所構内の水路に通じ、神田川に達するに至らしめなば、漕運の利は必ずしも大ならずとするも衛生上の益は決して尠少《せんしよう》ならざるべし。さて隅田川いよ/\下りて、浅草瓦町、本所横網町まさに尽きんとするのところに至れば、
○富士見の渡といふ渡あり。この渡はその名の表はすが如く最も好く富士を望むべし。夕の雲は火の如き夏の暮方、または日ざし麗らかに天|清《す》める秋の朝なんど、あるいは黒※[#二の字点、1−2−22]と聳え、あるいは白妙に晴れたるを望む景色いと神※[#二の字点、1−2−22]《こうごう》しくして、さすがに少時《しばし》は塵埃《じんあい》の舞ふ都の中にあるをすら忘れしむ。
○百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐《ふところ》をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特《こと》に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。百本杭の下浅草側を西に入る一水は即ち
○神田川なり。幅は然《さ》のみ濶《ひろ》からぬ川ながら、船の往来のいと多くして、前船後船|舳艫《じくろ》相|啣《ふく》み船舷相摩するばかりなるは、川筋繁華の地に当りて加之《しかも》遠く牛込の揚場まで船を通ずべきを以てなり。この川は吹弾歌舞の地として有名なる
○柳橋の下を潜り、また浅草橋左衛門橋美倉橋等の下を経、豊島町にて一水の左より来るに会す。この一水は
○神田堀の余流にして、直ちに東南に向つて去つて、中洲下にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に
○柳原橋、緑橋、汐見橋、千鳥橋、栄橋《さかえばし》、高砂橋、小川橋、蠣浜橋、中の橋、その他の諸橋は架れるなり。材木町、東福田町地先にてこの水路と会する一水は即ち
○今川橋下を流るゝ神田堀にして、御城《おしろ》外濠《そとぼり》より竜閑橋その他諸橋の下を経て来れるものなり。
○外濠は神田堀より入りて、右すれば神田橋一ツ橋|雉子《きじ》橋下を経て俎《まないた》橋下に至り、いはゆる飯田川となりて堀留に窮まり、左すれば常磐橋その他の下に出づべし。さて神田川は上に述べし柳原橋下の一流に会するところより上
○和泉橋下を経て、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水を呑み、飯田橋上流牛込揚場に至つて尽く。外濠はこれに尽くるにはあらねども漕運の便は実に揚場に極まりて、これより以上は神田川の称もまた止む。
○江戸川は水道の余水にして流れ清く、水量もまた河身の小なるに比して潤沢なれども、小舟のほかは往来しがたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より
○御茶の水橋下流に至るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども、しかもまた岸高く水|蹙《しじま》りて、樹木鬱蒼、幽邃《ゆうすい》閑雅の佳趣なきにあらず。往時《むかし》聖堂文人によりて茗渓《めいけい》と呼ばれたるは即ち此地《ここ》なり。女子師範学校及び高等師範学校の下、教育博物館の所在地は往時の大学ありしところにして、今なほ大成殿その他の建築保存せられ、境内また大概《おおよそ》旧に依りて存せらるゝを以て、塩谷《しおのや》宕陰《とういん》二十勝記のおもかげの残れるかたも少からず。茗渓より下
○稲荷河岸は小船への乗り場揚り場として古き人の能く知るところにして、美倉橋下左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語らでもありなん。橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、寺門静軒《てらかどせいけん》が記しゝ往時《むかし》も今も異りなし。橋の下流|少許《しばし》にして東に入るの一水あり。これを
○竪川といふ。竪川は一之橋二之橋竪川橋三之橋新辻橋四之橋等の下を経て、大島村小名木
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