かつ差し潮の力も利けば、大潮の満ち来る勢に河も膨るゝかと見ゆる折柄、潮に乗りて輾《きし》り出づる玉兎のいと大にして光り花やかなるを瞻《み》る、心もおのづから開くやう覚えて快し。一年の中に夕の潮は秋の潮最も大にして、一月の中に満月の夜の潮はまた最も大に、加之《しかも》月の上る頃はこのあたりにては潮のさし来る勢最も盛なる時なれば、東京広しといへども仲秋の月見にはこのあたりに上越したる好き地あるべくもあらず。人もし試《こころみ》に仲秋船を泛《うか》めてこのあたりに月を賞しなば、必ずや河も平生《ひごろ》の河にあらず月も平生の月にあらざるを覚えて、今までかゝる好風景の地を知らで過ぐしゝを憾《うら》むるならん。古《いにしえ》より文人墨客の輩綾瀬以上に遡らずして、たまたまかゝる地あるを知らざりしかば、詩文に載せられて世に現るゝことなく、以て今日に至りしならん。
○塩入りの渡口は月を観るに好き地の下流に在り。墨田堤の方より川を隔てゝ塩入村を望む眺め、呉春《ごしゆん》なんどの画を見る如く、淡き風景の中に詩趣乏しからず。
○綾瀬川は荒川の一転折して南に向つて流るゝところにて、東より来つて会する一渠の名なり
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