上記の如し。たゞ
○下田川と称する名称のことを未だ説かざりしが、明治以前の雑書に時に下田川の名を記すものは、別に一水の流れをなすありて下田川と呼ぶところあるにはあらず、実に永代橋下流即ち隅田川本流の佃島近きところを指していへるのみ。
川渠の大概は既に記したれば、これより聊《いささ》か海上の状を記さん。東京は概して南の方海に面して、隅田川の南の方海に注げるに伴つて発達したるところなれば、芝区及び品川の西南にありて海を抱いて湾曲なせるの外は、一丘一|砂嘴《さし》の突出して眼を遮るものだになし。されば大川の水のおのづからに土砂を流出するもの、極めて自然の状態をなして遠浅の海底を形づくるが中に、佃島の東の本澪の遠く南品川の沖に達すると、佃島西の上総澪の月島下流に至るとの二線がやゝ深き水路をなすあるのみ、岩礁の伏在するもなく、特別の潮路の去来するもなし。けだし東京前面の海の遠浅なるは、隅田川中川及び江戸川の流出する土砂の自然に堆積せるがためなれば、その砂洲の意外に広大にして、前に挙げたる二条の澪の外に大船巨艦を往来せしめがたきの観あるも怪むに足らずと言ふべし。本澪は第五第二の砲台の間を南へ通ずるなるが、その深さ大抵二|尋《ひろ》以上、上総澪はその深さにおいて及ばざること遠し。是の如くなるを以て北品川の陸嘴《りくし》より東北に向つて海上に散布されたる造船所、第一台場、第五台場、第二台場、第六台場、第三台場、未成のままにて終りし第七台場附近の地のやゝ深きを除きては、月島下流の地も芝浜沖も、東の方は越中島沖も木場沖も洲崎遊廓沖も砂村沖も、皆大抵春末の大干潮には現れ出づるほどの砂洲にして、これらの砂洲の上は即ち満都の士女等が
○汐干狩の楽地として、春末夏初の風|和《のど》かに天暖かなる頃、あるいは蛤蜊《こうり》を爪紅《つまくれない》の手に撈《と》るあり、あるいは銛《もり》を手にして牛尾魚《こち》比目魚《ひらめ》を突かんとするもあるところなり。釣魚の場、投網の場もまた多くはこれら砂洲の上にあり。海苔を収むるがために「ひゞ」と称して麁朶《そだ》を海中に柵立するところも、またこの砂洲の上もしくはその附近の地なり。中川の澪は洲崎の沖の方に東より来りて横《よこた》はれるなるが、本澪、上総澪、台場附近と共にこれらの澪筋もまた釣魚の場所たり。東京湾は甚だ広けれども品川以北中川以西即ち東京の前面の海上は大抵上に説けるが如し。もとより一朝の略説甚だ尽さゞるありといへども大概《おおよそ》はけだし叙し去りたるならん。往時《むかし》後魏の※[#「麗+おおざと」、第3水準1−92−85]善長《れきぜんちよう》は峻峭耿介《しゆんしようこうかい》にして博覧彊記、天下の奇書を読破して水経の註四十巻を著しゝが、後終に陰磐駅に囲まれて水を得ずして力屈し、賊のために殺さるゝに至りしことあり。予今水の東京を談《かた》るといへども、談つて甚だ詳しからず、必ずや水を得ざるの惨にあふことなからん。呵※[#二の字点、1−2−22]。[#地から3字上げ](明治三十五年二月)
底本:「一国の首都 他一篇」岩波文庫、岩波書店
1993(平成5)年5月17日第1刷発行
1999(平成11)年11月8日第2刷発行
底本の親本:「露伴全集 第二十九巻」岩波書店
1954(昭和29)年12月
入力:八巻美恵
校正:染川隆俊
2001年8月1日公開
2005年12月7日修正
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