区に取りては感謝すべき水路なりといふべし。その西に入るものは猿屋町鳥越町等の間を経て、下谷竹町の東、浅草小島町の西に至る、これいはゆる
○三絃堀《しやみせんぼり》なるものなり。この一条の水路もまた不潔と狭隘とを以て人の厭ふところなるが、これまた湿気排除のためと漕運の便とのために重要の一路たらずんばあらず。元来下谷は卑湿の地にして、西に湯島本郷の高地を負ふをもて、一朝雨雪の大に降るに会へば高処の水は自ら低処に来りて、下谷は一大|瀦水地《ちよすいち》となるの観を呈す。就中《なかんずく》御徒士町仲徒士町竹町等は氾濫の中心となるの勢あり。されば三味線堀は今も既に不忍の池の余水を受くるといへども、なほこれを修治拡大して立派なる渠となし、また一路を分岐せしめて、竹町仲徒士町等を経て南の方秋葉の原鉄道貨物取扱所構内の水路に通じ、神田川に達するに至らしめなば、漕運の利は必ずしも大ならずとするも衛生上の益は決して尠少《せんしよう》ならざるべし。さて隅田川いよ/\下りて、浅草瓦町、本所横網町まさに尽きんとするのところに至れば、
○富士見の渡といふ渡あり。この渡はその名の表はすが如く最も好く富士を望むべし。夕の雲は火の如き夏の暮方、または日ざし麗らかに天|清《す》める秋の朝なんど、あるいは黒※[#二の字点、1−2−22]と聳え、あるいは白妙に晴れたるを望む景色いと神※[#二の字点、1−2−22]《こうごう》しくして、さすがに少時《しばし》は塵埃《じんあい》の舞ふ都の中にあるをすら忘れしむ。
○百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐《ふところ》をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特《こと》に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。百本杭の下浅草側を西に入る一水は即ち
○神田川なり。幅は然《さ》のみ濶《ひろ》からぬ川ながら、船の往来のいと多くして、前船後船|舳艫《じくろ》相|啣《ふく》み船舷相摩するばかりなるは、川筋繁華の地に当りて加之《しかも》遠く牛込の揚場まで船を通ずべきを以てなり。この川は吹弾歌舞の地として有名なる
○柳橋の下を潜り、また浅草橋左衛門橋美倉橋等の下を経、豊島町にて一水の左より来るに会す。この一水は
○神田堀の余流にして、直ちに東南に向つて去つて、中洲下にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に
○柳原橋、緑橋、汐見橋、千鳥橋、栄橋《さかえばし》、高砂橋、小川橋、蠣浜橋、中の橋、その他の諸橋は架れるなり。材木町、東福田町地先にてこの水路と会する一水は即ち
○今川橋下を流るゝ神田堀にして、御城《おしろ》外濠《そとぼり》より竜閑橋その他諸橋の下を経て来れるものなり。
○外濠は神田堀より入りて、右すれば神田橋一ツ橋|雉子《きじ》橋下を経て俎《まないた》橋下に至り、いはゆる飯田川となりて堀留に窮まり、左すれば常磐橋その他の下に出づべし。さて神田川は上に述べし柳原橋下の一流に会するところより上
○和泉橋下を経て、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水を呑み、飯田橋上流牛込揚場に至つて尽く。外濠はこれに尽くるにはあらねども漕運の便は実に揚場に極まりて、これより以上は神田川の称もまた止む。
○江戸川は水道の余水にして流れ清く、水量もまた河身の小なるに比して潤沢なれども、小舟のほかは往来しがたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より
○御茶の水橋下流に至るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども、しかもまた岸高く水|蹙《しじま》りて、樹木鬱蒼、幽邃《ゆうすい》閑雅の佳趣なきにあらず。往時《むかし》聖堂文人によりて茗渓《めいけい》と呼ばれたるは即ち此地《ここ》なり。女子師範学校及び高等師範学校の下、教育博物館の所在地は往時の大学ありしところにして、今なほ大成殿その他の建築保存せられ、境内また大概《おおよそ》旧に依りて存せらるゝを以て、塩谷《しおのや》宕陰《とういん》二十勝記のおもかげの残れるかたも少からず。茗渓より下
○稲荷河岸は小船への乗り場揚り場として古き人の能く知るところにして、美倉橋下左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語らでもありなん。橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、寺門静軒《てらかどせいけん》が記しゝ往時《むかし》も今も異りなし。橋の下流|少許《しばし》にして東に入るの一水あり。これを
○竪川といふ。竪川は一之橋二之橋竪川橋三之橋新辻橋四之橋等の下を経て、大島村小名木
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