て吃驚するのが如何にも面白いので、後には態と紐を引ぱって踏みそうなところへ出して置いて遣るのです。彼のお蝶さんという方なども私の後へ廻って清書の世話などを焼く時に、つい知らずに踏みつけて吃驚した一人でした。犬に吠えられるのは怖かったが、これはまた非常に可笑しく思ったから今以て思い出して独り興ずる折もある位で、本宅を捜したらまだ其大巾着がどこかにあるだろうと思います。
手習いの傍、徒士町の會田という漢学の先生に就いて素読を習いました。一番初めは孝経で、それは七歳の年でした。元来其頃は非常に何かが厳重で、何でも復習を了らないうちは一寸も遊ばせないという家の掟でしたから、毎日々々朝暗いうちに起きて、蝋燭を小さな本箱兼見台といったような箱の上に立てて、大声を揚げて復読をして仕舞いました。そうすれば先生のところから帰って来て後は直ぐ遊ぶことが出来るのですから、家の人達のまだ寝ているのも何も構うことは無しに、聞えよがしに復読しました。随分迷惑でしたそうですが、然し止《よ》せということも出来ないので、御母様も堪えて黙って居らしったそうです。此復読をすることは小学校へ往くようになってからも相替らず八釜敷いうて遣らされました。併しそれも唯机に対って声さえ立てて居れば宜いので、毎日のことゆえ文句も口癖に覚えて悉皆暗誦して仕舞って居るものですから、本は初めの方を二枚か三枚開いたのみで後は少しも眼を書物に注がず、口から出任せに家の人に聞えよがしに声高らかに朗々と読んで居るのです。而《そ》して誰も見て居ないと豆鉄砲などを取り出して、ぱちりぱちりと打って遊んで居たこともある。そういうところへ誰かが出て来ると、さあ周章《あわて》て鉄砲を隠す、本を繰る、生憎開けたところと読んで居るところと違って居るのが見あらわされると大叱言を頂戴した。ああ、左様々々《そうそう》、まだ其頃のことで能く記臆して居ることがあります。前申した會田という人の許へ通って居た頃、或日雨が大層降って溝が開いたことがある。腿立を挙げる智慧も無かったと見えて袴を穿いたままのろのろと歩いていって、其儘上りこんで往ったものだから、代稽古の男に馬鹿々々、馬鹿々々と立続けに目の玉の飛び出るほど叱られた。振返って見ると、成程自分のあるいた跡は泥水が滴って畳の上にずーッとポタポタが着いて居た。併し此代稽古の男は兎角自分に出鱈目を教える男だったから、それに罵られたのが残念で残念で堪らなかった為め忘れずに居ります。
九歳のとき彼のお千代さんという方が女子師範学校の教師になられたそうで、手習いは御教えにならぬことになりました。で、私を何所へ遣ったものでしょうと家でもって先生に伺うと、御茶の水の師範学校付属小学校に入るが宜かろうというので、それへ入学させられました。其頃は小学校は上等が一級から八級まで、下等が一級から八級までという事に分たれて居ましたが、私は試験をされた訳では無いが最初に下等七級へ編入された。ところが同級の生徒と比べて非常に何も彼も出来ないので、とうとう八級へ落されて仕舞った。下等八級には九つだの十だのという大きい小供は居なかったので、大きい体で小さい小供の中に交ぜられたのは小供心にも大に恥しく思って、家へ帰っても知らせずに居た。然し此不出来であったのが全く学校なれざるためであって、程なく出来るようになって来た。で、此頃はまだ頻りに学校で抜擢ということが流行って、少し他の生徒より出来がよければ抜擢してずんずん進級せしめたのです。私もそれで幸いにどしどし他の生徒を乗越して抜擢されて、十三の年に小学校だけは卒業して仕舞った。
この小学校に通《かよ》って居る間に種々《いろいろ》の可笑しい話があるので。同級の生徒の中に西勃平というのと細川順太郎というのと私と、先ず此三人が年も同じ十一二歳で、気が合った朋友《ともだち》であった。この西勃平というのは、ああ今でも顔を能く覚えて居る。肥った饅頭面の、眼の小さい、随分おもしろい盛んな湾泊者《わんぱくもの》で、相撲を取って負かして置いて罵って遣ると、小さい眼からポロポロと涙を溢《こぼ》しながら非常な勢いで突かかって来るというような愉快な男でした。それで、己《おれ》は周勃と陳平とを一緒にしたんだなどと意張るのです。すると私が、何だ貴様が周勃と陳平とを一緒にしたのなら己は正成と正行とを一緒にしたのだと云って互に意張り合って、さあ来いというので角力を取る、喧嘩をする。正行が鼻血を出したり、陳平が泣面をしたりするという騒ぎが毎々でした。細川はそういうことは仕ない大人《おとな》のような小児《こども》でした。此二人は後にまた中学校でも落合ったことがあるので能くおぼえて居ました。
また此外に矢張りこれも同級の男で野崎というのがありましたが、此野崎の家は明神前で袋物などをも
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