少年時代
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)中徒士町《なかかちまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三歳の時|中徒士町《なかかちまち》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]
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 私は慶応三年七月、父は二十七歳、母は二十五歳の時に神田の新屋敷というところに生まれたそうです。其頃は家もまだ盛んに暮して居た時分で、畳数の七十余畳もあったそうです。併し世の中が変ろうというところへ生れあわせたので、生れた翌年は上野の戦争がある、危い中を母に負われて浅草の所有地へ立退いたというような騒ぎだったそうです。大層弱い生れつきであって、生れて二十七日目に最早医者に掛ったということです。御維新の大変動で家が追々微禄する、倹約せねばならぬというので、私が三歳の時|中徒士町《なかかちまち》に移ったそうだが、其時に前の大きな家へ帰りたい帰りたいというて泣いていて困ったから、母が止むを得ず連れて戻ったそうです。すると外の人が住んで居て大層様子が変わって居たものだから、漸く其後は帰りたいといわないようになったそうです。それから其後また山本町に移ったが、其頃のことで幼心にもうすうす覚えがあるのは、中徒士町に居た時に祖父《おじい》さんが御歿《おなく》なりになったこと位のものです。
 六歳の時、關雪江先生の御姉様のお千代さんと云う方に就いて手習を始めた。此方のことは佳人伝というものに出て居る、雪江先生のことは香亭雅談其他に出て居る。父も兄も皆雪江先生に学んだので、其縁で小さいけれども御厄介になったのです。随分大勢習いに来るものもありました。男女とも一室で、何でも年の大きい女の傍に小さい男の児が坐るというような体になって居たので、自然小さいものは其傍に居る娘さん達の世話になったのです。私はお蝶さんという方を大層好いて居て、其方をたよりにばかりして居た。其方に手を執って世話を仕て貰うと清書《きよがき》なども能く出来るような気が仕た。お蝶さんという方は後に關先生の家の方になられた。其頃習うたものは、「いろは」を終って次が「上大人丘一巳」というものであったと覚えて居る。
 弱い体は其頃でも丈夫にならなかったものと見えて、丁度「いろは」を卒《お》える頃からででもあったろうか、何でも大層眼を患って、光を見るとまぶしくてならぬため毎日々々戸棚の中へ入って突伏して泣いて居たことを覚えて居る。いろいろ療治をした後、根岸に二十八宿の灸とか何とかいって灸をする人があって、それが非常に眼に利くというので御父様に連れられて往った。妙なところへおろす灸で、而もその据えるところが往くたびに違うので馬鹿に熱い灸でした。往くたび毎に車に乗っても御父様の膝へ突伏してばかり居たが、或日帰途に弁天の池の端を通るとき、そうっと薄く眼を開いて見ると蓮の花や葉がありありと見えた。小供心にも盲目になるかと思って居たのが見えたのですから、其時の嬉しかったことは今思い出しても飛び立つようでした。最も永い病気で医者にもかかれば、観行院様(祖母)にも伴われて日朝様へ願を掛けたり、色々苦労したのです。其時日朝上人というのは線香の光で経文を写したという話を観行院様から聞いて、大層眼の良い人だと浦山しく思いました。然し幸に眼も快《よ》くなって何のこともなく日を過した。
 夏になると朝習いというのが始まるので、非常に朝早く起きて稽古に行ったものです。ところが毎朝通る道筋の角に柳屋という豆腐屋がある、其処の近所に何時も何時も大きな犬が寐転んで居る。子供の折は犬が非常に嫌いでしたから、怖々《こわごわ》に遠くの方を通ると、狗《いぬ》は却って其様子を怪んで、ややもすると吠えつく。余り早いので人通は少し、これには実に弱りました。或朝などは怖々ながらも、また今にも吠えられるか噛みつかれるかと思って、其犬の方ばかり見て往ったものだから、それに気をとられて路の一方の溝の中へ落ちたことがあった。別段怪我もしなかったが、身体中汚い泥染れになって叱られたことがある。其後親戚のものから、これを腰にさげて居れば犬が怖れて寄《より》つかぬというて、大きな豹だか虎だかの皮の巾着を貰ったので、それを腰にぶらぶらと下げて歩いたが、何だか怪しいものをさげて居た為めででもあったかして犬は猶更吠えつくようで、しばしば柳屋の前では閉口しました。然しまた可笑しかったのは、其巾着をさげて机の前に坐って手習をして居ると、女の人達が起ったり坐ったりする時に、動《やや》もすると知らずに踏みつける、すると毛がもじゃもじゃとするのでキャッといって驚く。其キャッと云っ
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