骨董
幸田露伴

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)韓駒《かんく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)松永|弾正《だんじやう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「櫂のつくり」、第3水準1−90−32]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)一[#(ト)]通り

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わざ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 骨董といふのは元来支那の田舎言葉で、字はたゞ其音を表はしてゐるのみであるから、骨の字にも董の字にもかゝはつた義が有るのでは無い。そこで、汨董と書かれることもあり、又古董と書かれることもある。字を仮りて音を伝へたまでであることは明らかだ。さて然し骨董といふ音が何様して古物の義になるかといふと、骨董は古銅の音転である、といふ説がある。其説に従へば、骨董は初は古銅器を指したもので、後に至つて玉石の器や書画の類まで、すべて古いものを称することになつたのである。なるほど韓駒《かんく》の詩の、「言ふ莫《な》かれ衲子《なふし》の籃《らん》に底無しと、江南の骨董を盛り取つて帰る」などといふ句を引いて講釈されると、然様かとも思はれる。江南には銅器が多いからである。しかし骨董は果して古銅から来た語だらうか、聊か疑はしい。若し真に古銅からの音転なら、少しは骨董といふ語を用ゐる時に古銅といふ字が用ゐられることが有りさうなものだのに、汨董だの古董だのといふ字がわざ/\代用されることが有つても、古銅といふ字は用ゐられてゐない。※[#「櫂のつくり」、第3水準1−90−32]晴江《てきせいかう》は通雅《つうが》を引いて、骨董は唐の引船の歌の「得董※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]那耶《とくとうこつなや》、揚州銅器多《やうしうどうきおほし》」から出たので、得董の音は骨董二字の原《もと》だ、と云つてゐる。得董※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]那耶は、エンヤラヤの様なもので、囃し言葉である、別に意味も無いから、定まつた字も無いわけである。其説に拠つて考へると、得董又は骨董には何の意味も無いが、古い船引き歌の其の第二句の揚州銅器多の銅器の二字が前の囃し言葉に連接してゐるので、骨董といふことが銅器などを云ふことに転じて来たことになるのである。又それから種※[#二の字点、1−2−22]の古物をも云ふことになつたのである。骨董は古銅の音転などといふ解は、本を知らずして末に就いて巧解したもので、少し手取り早過ぎた似而非《えせ》解釈といふ訳になる。
 又、蘇東坡が種※[#二の字点、1−2−22]の食物を雑へ烹《に》て、これを骨董羮と曰《い》つた。其の骨董は零雑の義で、恰も我邦俗のゴッタ煮ゴッタ汁などといふゴッタの意味に当る。それも字面には別に義があるのでは無い。又、水に落つる声を骨董といふ。それもコトンと落ちる響を骨董の字音を仮りて現はしたまでで、字面に何の義も有るのでは無い。畢竟骨董はいづれも文字国の支那の文字であるが、文字の義からの文字では無く、言語の音からの文字であつて、文字は仮りものであるから、それに訓詁的のむづかしい理屈は無い。
 そんな事は何様でも可いが、兎に角に骨董といふことは、貴いものは周鼎漢彝玉器《しうていかんいぎよくき》の類から、下つては竹木雑器に至るまでの間、書画法帖、琴剣鏡硯、陶磁の類、何でも彼でも古い物一切を云ふことになつてゐる。そして世におのづから骨董の好きな人が有るので、骨董を売買する所謂骨董屋を生じ、骨董の目きゝをする人、即ち鑑定家も出来、大は博物館、美術館から、小は古郵便券、マッチの貼紙の蒐集家まで、骨董畠が世界各国都鄙到るところに開かれて存在して居るやうになつてゐる。実におもしろい事で、又盛んなことで、有難い事で、意義ある事である。悪口を云へば骨董は死人の手垢の附いた物といふことで、余り心持の好いわけの物でも無く、大博物館だつて盗賊《どろばう》の手柄くらべを見るやうなものだが、そんな阿房げた論をして見たところで、野暮な談《はなし》で世間に通用しない。骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行はれるお蔭で、世界の文明史が血肉を具し脈絡が知れるに至るのであり、今までの光輝が吾曹の頭上にかゞやき、香気が我等の胸に逼つて、そして今人をして古文明を味はゝしめ、それから又古人とは異なつた文明を開拓させるに至るのである。食欲色欲ばかりで生きてゐる人間は、まだ犬猫なみの人間で、それらに満足し、若くはそれらを超越すれば、是非とも人間は骨董好きになる。云はゞ骨董が好きになつて、やつと人間並になつたので、豚だの牛だのは骨董を捻くつた例を見せてゐない。骨董を捻くり出すのは趣味性が長じて来たのである。それから又骨董は証拠物件である。で、学者も学問の種類によつては、学問が深くなれば是非骨董の世界に頭を突込み手を突込むやうになる。イヤでも黴臭いものを捻くらなければ、いつも定まりきつた書物の中をウロツイてゐる訳になるから、美術だの、歴史だの、文芸だの、其他いろ/\の分科の学者達も、有りふれた事は一[#(ト)]通り知り尽して終つた段になると、いつか知らぬ間に研究が骨董的に入つて行く。それも道理千万な談で、早い譬が、誤植だらけの活版本で何程《いくら》万葉集を研究したからとて、真の研究が成立たう訳は無い理屈だから、何様も学科によつては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マア此様な意味合もあつて、骨董は誠に貴ぶべし、骨董好きになるのは寧ろ誇るべし、骨董を捻くる度《ど》にも至らぬ人間は犬猫牛豚同様、誠にハヤ未発達の愍《あはれ》むべきものであると云つても可いのである。で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てゝ、小町の真筆のあなめ/\の歌、孔子様の讃《さん》が金《きん》で書いてある顔回の瓢《ひさご》、耶蘇の血が染みてゐる十字架の切れ端などといふものを買込んで、どんなものだいと反身になるのもマンザラ悪くは有るまいかも知らぬ。
 骨董いぢりは実にオツである、イキである。おもしろいに違ひ無い、高尚に違ひ無い、そして有意義に違ひない、そして場合によつては個人のため社会のためになる事も有るに違ひ無い。自分なぞも資産家でさへあれば屹度すばらしい贋物《がんぶつ》や贋筆を買込で大ニコ/\であるに疑ひ無い。骨董を買ふ以上は贋物を買ふまいなんぞといふ其様なケチな事で何様なるものか、古人も死馬の骨を千金で買ふとさへ云つてあるでは無いか。仇十州の贋筆は凡そ二十階級ぐらゐあるといふ談だが、して見れば二十度贋筆を買ひさへすれば卒業して真筆が手に入るのだから、何の訳は無いことだ。何だつて月謝を出さなければ物事はおぼえられない。贋物贋筆を買ふのは月謝を出すのだから、少しも不当の事では無い。扨月謝を沢山出した挙句に、いよ/\真物真筆を大金で買ふ。嬉しいに違ひ無い、自慢をしても可いに違ひ無い。嬉しがる、自慢をする。其の大金は喜悦税だ、高慢税だ。大金と云つたつて、十円の蝦蟇口から一円出すのは其人に取つて大金だが、千万円の弗箱から一万円出したつて五万円出したつて、比例をして見れば其人に取つて実は大金では無い、些少の喜悦税、高慢税といふべきものだ。そして其の高慢税は所得税などと違つて、政府へ納められて盗賊役人だかも知れない役人の月給などになるのでは無く、直に骨董屋さんへ廻つて世間に流通するのであるから、手取早く世間の融通を助けて、いくらか景気をよくしてゐるのである。野暮でない、洒落切つた税といふもので、いや/\出す税や、督促を食つた末に女房の帯を質屋へたゝき込んで出す税とは訳が違ふ金なのだから、同じ税でも所得税なぞは、道成寺では無いが、かねに恨が数※[#二の字点、1−2−22]ござる、思へば此のかね恨めしやの税で、此方の高慢税の如きは、金と花火は飛出す時光る、花火のやうに美しい勢の好い税で、出す方も、ソレ五万両、やすいものだ、と欣※[#二の字点、1−2−22]《にこ/\》として投出す、受取る方も、ハッ五万円、先づ此位のものをお納めして置きますれば私も鼻が高うございますると欣※[#二の字点、1−2−22]して受取る。悪い心持のする景色では有るまい。誰だつて高慢税は出したからうでは無いか。自分も高慢税は沢山出したい。が、不埒千万、人生五十年過ぎてもまだ滞納とは怪しからぬものだ。
 此の高慢税を納めさせることをチャンと合点してゐたのは豊臣秀吉で、何といつても洒落た人だ。東山時分から高慢税を出すことが行はれ出したが、初めは銀閣金閣の主人みづから税を出してゐたのだ。まことに殊勝の心がけの人だつた。信長の時になると、もう信長は臣下の手柄勲功を高慢税額に引直して、所謂骨董を有難く頂戴させてゐる。羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》なぞも戦《いくさ》をして手柄を立てる、其の勲功の報酬の一部として茶器を頂戴してゐる。つまり五万両なら五万両に相当する勲功を立てた時に、五万両の代りに茶器を戴いてゐるのである。其の骨董に当時五万両の価値が有れば、然様いふ骨董を頂戴したのはつまり筑前守は五万両の高慢税を出して喜んでそれを買つたのと同じことである。秀吉が筑前守時代に数※[#二の字点、1−2−22]の茶器を信長から勲功の賞として貰つたことを記して居る手紙を自分の知人が持つてゐる。専門の史家の鑑定に拠れば疑ふべくも無いものだ。で、高慢税を払はせる発明者は秀吉では無くて、信長の方が先輩であると考へらるゝのであるが、大に其の税法を広行したのは秀吉である。秀吉の智謀威力で天下は大分明るくなり安らかになつた。東山以来の積勢で茶事は非常に盛んになつた。茶道にも機運といふものでがな有らう、英霊底の漢子が段※[#二の字点、1−2−22]に出て来た。松永|弾正《だんじやう》でも織田信長でも、風流も無きにあらず、余裕も有つた人で有るから、皆|茶讌《ちやえん》を喜んだ。然し大煽りに煽つたのは秀吉で有つた。奥州武士の伊達政宗が罪を堂ヶ島に待つ間にさへ茶事を学んだほど、茶事は行はれたのである。勿論秀吉は小田原陣にも茶道宗匠を随へてゐたほどである。南方外国や支那から、おもしろい器物を取寄せたり、又古渡の物、在来の物をも珍重したりして、おもしろい、味のあるものを大に尊んだ。骨董は非常の勢をもつて世に尊重され出した。勿論おもしろくないものや、味の無いものや、平凡のものを持囃したのでは無い。人をして成程と首肯点頭せしむるに足るだけの骨董を珍重したのである。食色の慾は限りがある、又それは劣等の慾、牛や豚も通有する慾である。人間はそれだけでは済まぬ。食色の慾が足り、少しの閑暇が有り、利益や権力の慾火は断えず燃ゆるにしても其れが世態漸く安固ならんとする傾を示して来て、然様無暗に修羅心に任せて※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]きまはることも無効ならんとする勢の見ゆる時に於て、何様して趣味の慾が頭を擡げずに居よう。況んや又趣味には高下も有り優劣も有るから、優越の地に立ちたいといふ優勝慾も無論手伝ふことであつて、こゝに茶事といふ孤独的で無い会合的の興味ある事が存するに於ては、誰か茶讌を好まぬものが有らう。そして又誰か他人の所有に優るところの面白い、味のある、平凡ならぬ骨董を得ることを悦ばぬ者が有らう。需《もと》むる者が多くて、給さるべき物は少い。さあ骨董が何様して貴きが上にも貴くならずに居よう。上は大名達より、下は有福の町人に至るまで、競つて高慢税を払はうとした。税率は人※[#二の字点、1−2−22]が寄つてたかつて競《せ》り上げた。北野の大茶の湯なんて、馬鹿気たことでも無く、不風流の事でも無いか知らぬが、一方から観れば天下を茶の煙りに巻いて、大煽りに煽つたもので、高慢競争をさせたやうなものだ。扨又当時に於て秀吉の威光を背後に負ひて、目眩いほどに光り輝いたものは千利休であつた。勿論利休は不世出の英霊漢である
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング