廉くない。仕方が無いから割に高いけれども、腹の中に目的があるので、先方の云ひ値で買つて、吾が家へ帰ると直に此話をした、勿論親父に悦ばれるつもりであつた。すると親父は悦ぶどころか大怒りで、「たはけづらめ、慾に気が急いて、鐙の左右にも心を附けずに買ひ居つたナ」と罵られた。金八も馬鹿ぢや無かつた。ハッと気が付いて、「しまつた。向後《きやうこう》気をつけます、御免なさいまし」と叩頭したが、それから「片鐙の金八」といふ渾名を付けられたといふことである。これは、もとより片方しか無かつた鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径《ちかみち》のまはり道をして同じ其鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さへ急かねば謀られる訳は無いが、他人に仕て遣られぬ前にといふのと、なまじ前に熟視して居て、テッキリ同じ物だと思つた心の虚といふものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃食はせられたのである。親父は流石に老功で、後家の鐙を買合せて大きい利を得る、そんな甘い事が有るものでは無いといふところに勘を付けて、直に右左の調べに及ばなかつたナと、紙燭をさし出して慾心の黒闇を破つたところは
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