親父だけあつたのである。勿論深草を尋ねても鐙は無くつて、片鐙の浮名だけが金八の利得になつたのである。昔と今とは違ふが、今だつて信州と名古屋とか、東京と北京とかの間で此手で謀られたなら、慾気満※[#二の字点、1−2−22]の者は一服頂戴せぬとは限るまい。片鎧の金八は一寸おもしろい談だ。
 も一ツ古い談をしようか、これは明末《みんまつ》の人の雑筆に出てゐるので、其の大分に複雑で、そして其談中に出て来る骨董好きの人※[#二の字点、1−2−22]や骨董屋の種※[#二の字点、1−2−22]の性格|風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》がおのづと現はれて、且又高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものであるといふことを語つて居る点で甚だ面白いと感ずるのみならず、骨董といふものに就て一種の淡い省悟《せいご》を発せしめられるやうな気味があるので、自分だけかは知らぬが興味有ることに覚える。談の中に出て来る人※[#二の字点、1−2−22]には名高い人※[#二の字点、1−2−22]も有り、勿論虚構の談では無いと考へられるのである。
 定窯《ていえう》といへば少し骨董好きの人なら誰でも知つてゐる貴い陶器だ。宋の時代に定州で出来たものだから定窯といふのである。詳しく言へば其中にも南定と北定とあつて、南定といふのは宋が金に逐はれて南渡してからのもので、勿論其前の北宋の時、美術天子の徽宗皇帝の政和|宣和《せんな》頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。又、新定といふものがあるが、それは下つて元の頃に出来たもので、ほんとの定窯では無い。北定の本色は白で、白の※[#「さんずい+幼」、170−下−17]水《いうすゐ》の加はつた工合に、何とも云へぬ面白い味が出て、然程に大したもので無くてさへ人を引付ける。
 ところが、こゝに一つの定窯の宝鼎があつた。それは鼎のことであるから蓋し当時宮庭へでも納めたものであつたらう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であつた。はじめ明の成化弘治の頃、朱陽の孫氏が山水山房に蔵してゐた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつゞき合で、七峯は当時の名士であつた楊文襄《やうぶんじやう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゆくけいてう》、唐解元《たうかいげん》、李西涯《りせいがい》等《とう》と朋友《ともだち》で、七峯の居たところの南山で、正徳十五年七峯が蘭亭の古のやうに修禊《しうけい》の会をした時は、唐六如が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だつたばつかりで無かつたのである。そこで其の定窯の鼎の台座には、友人だつた李西涯が篆書《てんしよ》で銘を書いて、鐫《ゑ》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであつたらう。然様いふスバらしい鼎だつたのである。
 ところが嘉靖《かせい》年間に倭寇に荒されて、大富豪だけに孫氏は種※[#二の字点、1−2−22]の点で損害を蒙つて、次第※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に家運が傾いた。で、蓄へてゐたところの珍貴な品※[#二の字点、1−2−22]を段※[#二の字点、1−2−22]と手放すやうになつた。鼎は遂に京口の※[#「革+斤」、第3水準1−93−77]尚宝《きしやうはう》の手に渡つた。それから毘陵《びりよう》の唐太常凝菴《たうたいじやうぎようあん》が非常に懇望して、とう/\凝菴の手に入つたが、此の凝菴といふ人は、地位もあり富力もある上に、博雅で、鑒織《かんしき》にも長け、勿論学問も有つた人だつたから、家には非常に多くの優秀な骨董を有して居た。然し孫氏旧蔵の白定窯鼎が来るに及んで、諸の窯器《えうき》は皆其の光輝を失つたほどであつた。そこで天下の窯器を論ずる者は、唐氏凝菴の定鼎を以て、海内《かいだい》第一、天下一品とすることに定まつてしまつた。実際無類絶好の奇宝で有り、そして一見した者と一見もせぬ者とに論無く、衆口|嘖※[#二の字点、1−2−22]《さく/\》として云伝へ聞伝へて羨涎を垂れるところのものであつた。
 こゝに呉門の周丹泉《しうたんせん》といふ人があつた。心慧思霊の非常の英物で、美術骨董にかけては先づ天才的の眼も手も有して居た人であつたが、或時|金※[#「門<昌」、第3水準1−93−51]《きんしやう》から舟に乗り、江右に往く、道に毘陵を経て、唐太常に拝謁を請ひ、そして天下有名の彼の定鼎の一覧を需めた。丹泉の俗物で無いことを知つて交つてゐた唐氏は喜んで引見して、そして其需に応じた。丹泉はしきりに称讃して其鼎をためつすがめつ熟視し、手をもつて大さを度《はか》つたり、ふところ紙に鼎の紋様を模《うつ》したりして、斯様い
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