た。考えて見れば黄金や宝石だって人生に取って真価値があるのではない、やはり一種の手形じゃまでなのであろう。徹底して観ずれば骨董も黄金も宝石も兌換券も不換紙幣も似たり寄ったりで、承知されて通用すれば樹の葉が小判でも不思議はないのだ。骨董の佳《よ》い物おもしろい物の方が大判やダイヤモンドよりも佳くもあり面白くもあるから、金貨や兌換券で高慢税をウンと払って、釉《くすり》の工合の妙味言うべからざる茶碗なり茶入《ちゃいれ》なり、何によらず見処《みどころ》のある骨董を、好きならば手にして楽しむ方が、暢達《ちょうたつ》した料簡というものだ。理屈に沈む秋のさびしさ、よりも、理屈をぬけて春のおもしろ、の方が好さそうな訳だ。関西の大富豪で茶道好きだった人が、死ぬ間際に数万金で一茶器を手に入れて、幾時間を楽《たのし》んで死んでしまった。一時間が何千円に当った訳だ、なぞと譏《そし》る者があるが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能のない、理屈をぬけた楽しい天地のあることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だって煙草《たばこ》の煙よりも果敢《はかな》いものにしか思えぬことを会得し
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