下さいというと、廷珸は承知して一幅を返した。一幅は何も彼《か》も異《ことな》ってはいなかった。しかし仏元は隠しじるしのあり処《どころ》についてその有無を査《しら》べた。不思議や主人の花押は影も形もなかった。ないはずである、廷珸が今渡したものは正《まさ》しく※[#「暮」に「日」に代えて「手」、第3水準1−84−88]品なのであるもの。
仏元はさてこそと腹の中でニヤリと笑った。ところでこの男がまた真剣|白刃取《しらはど》りを奉書《ほうしょ》の紙一枚で遣付《やりつ》けようという男だったから、これは怪しからん、模本贋物を御渡しになるとは、と真正面からこちらの理屈の木刀を揮《ふる》って先方の毒悪の真剣と切結ぶような不利なことをする者ではなかった。何でもない顔をして模本の雲林を受取った。敵の真剣を受留めはしないで、澄まして体《たい》を交《か》わして危気《あぶなげ》のないところに身を置いたのである。そしてこういうことを言った。「主人はただ私《わたくし》に画を頂戴して参れとばかりではなく、こちらの定窯鼎をお預かり致してまいれ、御直段《おねだん》の事はいずれ御相談致しますということで」といった。定鼎の売れ口がありそうな談《はなし》である。そこで廷珸は悦んで例の鼎を出して仏元に渡した。廷珸は仏元に、より長い真剣を渡して終《しま》ったのである。
そこへ正賓は遣《や》って来た。そして画を検査してから、「售《う》れないなら售れないで、原物を返してくれるべきに、狡《こす》いことをしては困る」というと、「飛んでもない、正しくこれは原物で」と廷珸はいい張る。「イヤ、そうは脱けさせない。自分は隠しじるしをして置いた、それが今|何処《どこ》にある。ソンナ甘《あま》い手を食わせられる自分じゃない」という。「そりゃいい掛《がか》りというもので、原物を返せば論はないはずだ」という。双方負けず劣らず遣合《やりあ》って、チャンチャンバラと闘ったが、仏元は左右の指を鼎の耳へかけて、この鼎を還すまじいさまをしていた。論に勝っても鼎を取られては詰らぬと気のついた廷珸は、スキを見て鼎を奪取《うばいと》ろうとしたが、耳をしっかり持っていたのだったから、巧《うま》くは奪えなかった。耳は折れる、鼎は地に墜《お》ちる。カチャンという音一ツで、千万金にもと思っていたものは粉砕してしまった。ハッと思うと憤恨一時に爆裂した廷珸は、夢中になって当面の敵の正賓にウンと頭撞《ずつ》きを食わせた。正賓は肋《あばら》を傷《きずつ》けられて卒倒し、一場《いちじょう》は無茶苦茶になった。
元来正賓は近年逆境におり、かつまた不如意《ふにょい》で、惜しい雲林さえ放そうとしていた位のところへ、廷珸の侮《あなど》りに遭い、物は取上げられ、肋は傷けられたので、鬱悶《うつもん》苦痛一時に逼《せま》り、越夕《えっせき》して終《つい》に死んでしまった。廷珸も人命|沙汰《ざた》になったので土地にはいられないから、出発して跡を杭州《こうしゅう》にくらました。周丹泉の造った模品はこれで土に返った訳である。
談《はなし》はもうこれで沢山であるのに、まだ続くから罪が深い。廷珸が前に定窯の鼎類数種を蒐《あつ》めた中に、なお唐氏旧蔵の定鼎と号して大名物を以て人を欺《あざむ》くべきものがあった。廷珸は杭州に逃げたところ、当時|※[#「さんずい+路」、第3水準1−87−11]王《ろおう》が杭州に寓《ぐう》しておられた。廷珸は※[#「さんずい+路」、第3水準1−87−11]王の承奉兪啓雲《しょうほうゆけいうん》という者に遇って、贋鼎を出して示して、これが唐氏旧蔵の大名物と誇耀《こよう》した。そして※[#「さんずい+路」、第3水準1−87−11]王に手引《てびき》してもらって、手取り千六百金、四百金を承奉に贈ることにして、二千金で売付けた。時はもう明末にかかり、万事|不束《ふつつか》で、人も満足なものもなかったので、一厨役《いちちゅうやく》の少し麁鹵《そろ》なものにその鼎を蔵した管龠《かんやく》を扱わせたので、その男があやまってその贋鼎の一足《ひとあし》を折ってしまった。で、その男は罪を懼《おそ》れて身を投げて死んで終《しま》った。その頃大兵が杭州に入り来たって、※[#「さんずい+路」、第3水準1−87−11]王は奔《はし》り、承奉は廃鼎《はいてい》を銭塘江《せんとうこう》に沈めてしまったという。
これでこの一条の談《はなし》は終りであるが、骨董というものに附随して随分種※[#二の字点、1−2−22]の現象が見られることは、ひとりこの談のみの事ではあるまい。骨董は好い、骨董はおもしろい。ただし願わくはスラリと大枚《たいまい》な高慢税を出して楽《たのし》みたい。廷珸や正賓のような者に誰しも関係したくは思うまい。それからまた、いくら詰らぬ
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