い省悟《せいご》を発せしめられるような気味があるので、自分だけかは知らぬが興味あることに覚える。談《はなし》の中に出て来る人※[#二の字点、1−2−22]には名高い人※[#二の字点、1−2−22]もあり、勿論虚構の談ではないと考えられるのである。
定窯《ていよう》といえば少し骨董好きの人なら誰でも知っている貴い陶器だ。宋《そう》の時代に定州《ていしゅう》で出来たものだから定窯というのである。詳しく言えばその中にも南定《なんてい》と北定《ほくてい》とあって、南定というのは宋が金《きん》に逐《お》われて南渡《なんと》してからのもので、勿論その前の北宋《ほくそう》の時、美術天子の徽宗《きそう》皇帝の政和宣和《せいわせんな》頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。また、新定《しんてい》というものがあるが、それは下《くだ》って元《げん》の頃に出来たもので、ほんとの定窯ではない。北定の本色は白で、白の※[#「さんずい+幼」、107−12]水《ゆうすい》の加わった工合に、何ともいえぬ面白い味が出て、さほどに大したものでなくてさえ人を引付ける。
ところが、ここに一つの定窯の宝鼎《ほうてい》があった。それは鼎《かなえ》のことであるからけだし当時宮庭へでも納めたものであったろう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であった。はじめ明の成化弘治《せいかこうじ》の頃、朱陽《しゅよう》の孫氏《そんし》が曲水山房《きょくすいさんぼう》に蔵していた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつづき合《あい》で、七峯は当時の名士であった楊文襄《ようぶんじょう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゅくけいちょう》、唐解元《とうかいげん》、李西涯《りせいがい》等と朋友《ともだち》で、七峯のいたところの南山《なんざん》で、正徳《せいとく》十五年七峯が蘭亭《らんてい》の古《いにしえ》のように修禊《しゅうけい》の会をした時は、唐六如《とうりくじょ》が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だったばっかりでなかったのである。そこでその定窯の鼎の台座には、友人だった李西涯が篆書《てんしょ》で銘《めい》を書いて、鐫《え》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであったろう。そういうスバらしい鼎だ
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