《ふく》んで十六間|真逆《まさか》しまに飛ぶところ、欄干《てすり》をこう踏み、風雨を睨《にら》んであれほどの大揉《おおも》めの中にじっと構えていたというが、その一念でも破壊《こわ》るまい、風の神も大方|血眼《ちまなこ》で睨まれては遠慮が出たであろうか、甚五郎《じんごろう》このかたの名人じゃ真の棟梁じゃ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったに一寸一分|歪《ゆが》みもせず退《ず》りもせぬとはよう造ったことの。いやそれについて話しのある、その十兵衛という男の親分がまた滅法えらいもので、もしもちとなり破壊れでもしたら同職《なかま》の恥辱《はじ》知合いの面汚し、汝《うぬ》はそれでも生きて居らりょうかと、とても再び鉄槌《かなづち》も手斧《ちょうな》も握ることのできぬほど引っ叱《しか》って、武士で云わば詰腹同様の目に逢わしょうと、ぐるぐるぐる大雨を浴びながら塔の周囲《まわり》を巡っていたそうな。いやいや、それは間違い、親分ではない商売上敵《しょうばいがたき》じゃそうな、と我れ知り顔に語り伝えぬ。
 暴風雨のために準備《したく》狂いし落成式もいよいよ済みし日、上人わざわざ源太を召《よ》びたまいて十兵衛とともに塔に上られ、心あって雛僧《こぞう》に持たせられしお筆に墨汁《すみ》したたか含ませ、我この塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ源太も見よと宣《のたま》いつつ、江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す、年月日とぞ筆太に記《しる》しおわられ、満面に笑みを湛《たた》えて振り顧《かえ》りたまえば、両人ともに言葉なくただ平伏《ひれふ》して拝謝《おが》みけるが、それより宝塔|長《とこしな》えに天に聳《そび》えて、西より瞻《み》れば飛檐《ひえん》ある時素月を吐き、東より望めば勾欄《こうらん》夕べに紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、譚《はなし》は活《い》きて遺《のこ》りける。



底本:「日本の文学 1 坪内逍遙 二葉亭四迷 幸田露伴」中央公論社
   1970(昭和45)年1月5日初版発行
初出:「国会新聞」
   1891(明治24)年11月〜1892(明治25)年4月
※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。
「五重塔 新字旧仮名」(入力:kompass、校正:浅原庸子)
入力:佐野良二
校正:川山隆
2009年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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