五重塔
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)木理《もくめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二綜|後《おく》れ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)一[#(ト)]綜
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其一
木理《もくめ》美《うるわ》しき槻胴《けやきどう》、縁にはわざと赤樫《あかがし》を用いたる岩畳作りの長火鉢《ながひばち》に対《むか》いて話し敵《がたき》もなくただ一人、少しは淋《さび》しそうに坐《すわ》り居る三十前後の女、男のように立派な眉《まゆ》をいつ掃《はら》いしか剃《そ》ったる痕《あと》の青々と、見る眼も覚《さ》むべき雨後の山の色をとどめて翠《みどり》の匂《にお》いひとしお床しく、鼻筋つんと通り眼尻《めじり》キリリと上り、洗い髪をぐるぐると酷《むご》く丸《まろ》めて引裂紙《ひっさきがみ》をあしらいに一本簪《いっぽんざし》でぐいと留《とど》めを刺した色気なしの様はつくれど、憎いほど烏黒《まっくろ》にて艶ある髪の毛の一[#(ト)]綜《ふさ》二綜|後《おく》れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかかれる趣きは、年増嫌《としまぎら》いでも褒《ほ》めずにはおかれまじき風体、わがものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢《しれもの》が随分頼まれもせぬ詮議《せんぎ》を蔭《かげ》ではすべきに、さりとは外見《みえ》を捨てて堅義を自慢にした身の装《つく》り方、柄の選択《えらみ》こそ野暮ならね高が二子の綿入れに繻子襟《しゅすえり》かけたを着てどこに紅《べに》くさいところもなく、引っ掛けたねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]ばかりは往時《むかし》何なりしやら疎《あら》い縞《しま》の糸織なれど、これとて幾たびか水を潜って来た奴《やつ》なるべし。
今しも台所にては下婢《おさん》が器物《もの》洗う音ばかりして家内静かに、ほかには人ある様子もなく、何心なくいたずらに黒文字を舌端《したさき》で嬲《なぶ》り躍《おど》らせなどしていし女、ぷつりとそれを噛《か》み切ってぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火|体《てい》よく埋《い》け、芋籠《いもかご》より小巾《こぎれ》とり出《いだ》し、銀ほど光れる長五徳《ながごとく》を磨《みが》きおとし[#「おとし」に傍点]を拭《ふ》き銅壺《どうこ》の蓋《ふた》まで奇麗にして、さて南部霰地《なんぶあられ》の大鉄瓶《おおてつびん》をちゃんとかけし後、石尊様詣りのついでに箱根へ寄って来しものが姉御《あねご》へ御土産《おみや》とくれたらしき寄木細工の小繊麗《こぎよう》なる煙草箱《たばこばこ》を、右の手に持った鼈甲管《べっこうらお》の煙管《きせる》で引き寄せ、長閑《のどか》に一服吸うて線香の煙るように緩々《ゆるゆる》と煙りを噴《は》き出《いだ》し、思わず知らず太息《ためいき》吐《つ》いて、多分は良人《うち》の手に入るであろうが憎いのっそり[#「のっそり」に傍点]めが対《むこ》うへ廻《まわ》り、去年使うてやった恩も忘れ上人様に胡麻摺《ごます》り込んで、たってこん度の仕事をしょうと身の分も知らずに願いを上げたとやら、清吉《せいきち》の話しでは上人様に依怙贔屓《えこひいき》のお情《こころ》はあっても、名さえ響かぬのっそりに大切《だいじ》の仕事を任せらるることは檀家方の手前寄進者方の手前もむつかしかろうなれば、大丈夫|此方《こち》に命《いいつ》けらるるにきまったこと、よしまたのっそりに命けらるればとて彼奴《あれめ》にできる仕事でもなく、彼奴の下に立って働く者もあるまいなれば見事でかし損ずるは眼に見えたこととのよしなれど、早く良人《うちのひと》がいよいよ御用|命《いいつ》かったと笑い顔して帰って来られればよい、類の少い仕事だけに是非して見たい受け合って見たい、欲徳はどうでも関《かま》わぬ、谷中感応寺《やなかかんおうじ》の五重塔は川越《かわごえ》の源太《げんた》が作りおった、ああよくでかした感心なと云われて見たいと面白がって、いつになく職業《しょうばい》に気のはずみを打って居らるるに、もしこの仕事を他《ひと》に奪《と》られたらどのように腹を立てらるるか肝癪《かんしゃく》を起さるるか知れず、それも道理であって見れば傍《わき》から妾《わたし》の慰めようもないわけ、ああなんにせよめでとう早く帰って来られればよいと、口には出さねど女房気質、今朝|背面《うしろ》からわが縫いし羽織打ち掛け着せて出したる男の上を気遣うところへ、表の骨太格子《ほねぶとごうし》手あらく開《あ》けて、姉御、兄貴は、なに感応寺へ、仕方がない、それでは姉御に、済みませんがお頼み申します、つい昨晩《ゆうべ》酔《へべ》まして、と後は云わず異な手つきをして話せば、眉頭《まゆがしら》に皺《しわ》をよせて笑いながら、仕方のないもないもの、少し締まるがよい、と云い云い立って幾らかの金を渡せば、それをもって門口《かどぐち》に出で何やらくどくど押し問答せし末こなたに来たりて、拳骨《げんこつ》で額を抑え、どうも済みませんでした、ありがとうござりまする、と無骨な礼をしたるもおかし。
其二
火は別にとらぬから此方《こち》へ寄るがよい、と云いながら重げに鉄瓶を取り下して、属輩《めした》にも如才なく愛嬌《あいきょう》を汲《く》んでやる桜湯一杯、心に花のある待遇《あしらい》は口に言葉の仇《あだ》繁《しげ》きより懐かしきに、悪い請求《たのみ》をさえすらりと聴《き》いてくれし上、胸にわだかまりなくさっぱりと平日《つね》のごとく仕做《しな》されては、清吉かえって心羞《うらはず》かしく、どうやら魂魄《たましい》の底の方がむず痒《がゆ》いように覚えられ、茶碗《ちゃわん》取る手もおずおずとして進みかぬるばかり、済みませぬという辞誼《じぎ》を二度ほど繰り返せし後、ようやく乾《かわ》ききったる舌を湿《うるお》す間もあらせず、今ごろの帰りとはあまり可愛がられ過ぎたの、ホホ、遊ぶはよけれど職業《しごと》の間を欠いて母親《おふくろ》に心配さするようでは、男振りが悪いではないか清吉、汝《そなた》はこのごろ仲町《なかちょう》の甲州屋様の御本宅の仕事が済むとすぐに根岸の御別荘のお茶席の方へ廻らせられて居るではないか、良人《うち》のも遊ぶは随分好きで汝たちの先に立って騒ぐは毎々なれど、職業を粗略《おろそか》にするは大の嫌い、今もし汝の顔でも見たらばまた例の青筋を立つるに定《き》まって居るを知らぬでもあるまいに、さあ少し遅くはなったれど母親の持病が起ったとか何とか方便は幾らでもつくべし、早う根岸へ行くがよい、五三《ごさ》様もわかった人なれば一日をふてて怠惰《なまけ》ぬに免じて、見透《みす》かしても旦那の前は庇護《かぼ》うてくるるであろう、おお朝飯がまだらしい、三や何でもよいほどに御膳《ごぜん》を其方《そち》へこしらえよ、湯豆腐に蛤鍋《はまなべ》とは行かぬが新漬に煮豆でも構わぬわのう、二三杯かっこんですぐと仕事に走りゃれ走りゃれ、ホホ睡《ねむ》くても昨夜《ゆうべ》をおもえば堪忍《がまん》のなろうに精を惜しむな辛防《しんぼう》せよ、よいは[#「よいは」はママ]弁当も松に持たせてやるわ、と苦《にが》くはなけれど効験《ききめ》ある薬の行きとどいた意見に、汗を出して身の不始末を慚《は》ずる正直者の清吉。
姉御、では御厄介《ごやっかい》になってすぐに仕事に突っ走ります、と鷲掴《わしづか》みにした手拭《てぬぐい》で額|拭《ふ》き拭き勝手の方に立ったかとおもえば、もうざらざらざらっと口の中へ打《ぶ》ち込むごとく茶漬飯五六杯、早くも食うてしまって出て来たり、さようなら行ってまいります、と肩ぐるみに頭をついと一ツ下《さ》げて煙草管《きせる》を収め、壺屋《つぼや》の煙草入《りょうさげ》三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子|気質《かたぎ》、草履《ぞうり》つっかけ門口出づる、途端に今まで黙っていたりし女は急に呼びとめて、この二三日にのっそり[#「のっそり」に傍点]めに逢《お》うたか、と石から飛んで火の出しごとく声を迸《はし》らし問いかくれば、清吉ふりむいて、逢いました逢いました、しかも昨日御殿坂で例ののっそりがひとしおのっそりと、往生した鶏《とり》のようにぐたりと首を垂《た》れながら歩行《ある》いて居るを見かけましたが、今度こっちの棟梁《とうりょう》の対岸《むこう》に立ってのっそりの癖に及びもない望みをかけ、大丈夫ではあるものの幾らか棟梁にも姉御にも心配をさせるその面《つら》が憎くって面が憎くって堪《たま》りませねば、やいのっそりめと頭から毒を浴びせてくれましたに、あいつのことゆえ気がつかず、やいのっそりめ、のっそりめと三度めには傍へ行って大声で怒鳴ってやりましたればようやくびっくりして梟《ふくろ》に似た眼で我《ひと》の顔を見つめ、ああ清吉あーにーいかと寝惚声《ねぼけごえ》の挨拶《あいさつ》、やい、汝《きさま》は大分好い男児《おとこ》になったの、紺屋《こうや》の干場へ夢にでも上《のぼ》ったか大層高いものを立てたがって感応寺の和尚様に胡麻を摺《す》り込むという話しだが、それは正気の沙汰か寝惚けてかと冷語《ひやかし》をまっ向からやったところ、ハハハ姉御、愚鈍《うすのろ》い奴というものは正直ではありませんか、なんと返事をするかとおもえば、我《わし》も随分骨を折って胡麻は摺って居るが、源太親方を対岸に立てて居るのでどうも胡麻が摺りづらくて困る、親方がのっそり汝《きさま》やって見ろよと譲ってくれればいいけれどものうとの馬鹿に虫のいい答え、ハハハ憶《おも》い出しても、心配そうに大真面目くさく云ったその面がおかしくて堪りませぬ、あまりおかしいので憎っ気もなくなり、箆棒《べらぼう》めと云い捨てに別れましたが。それぎりか。へい。そうかえ、さあ遅くなる、関わずに行くがよい。さようならと清吉は自己《おの》が仕事におもむきける、後はひとりで物思い、戸外《おもて》では無心の児童《こども》たちが独楽戦《こまあて》の遊びに声々|喧《かしま》しく、一人殺しじゃ二人殺しじゃ、醜態《ざま》を見よ讐《かたき》をとったぞと号《わめ》きちらす。おもえばこれも順々|競争《がたき》の世の状《さま》なり。
其三
世に栄え富める人々は初霜月の更衣《うつりかえ》も何の苦慮《くるしみ》なく、紬《つむぎ》に糸織に自己《おの》が好き好きの衣《きぬ》着て寒さに向う貧者の心配も知らず、やれ炉開きじゃ、やれ口切りじゃ、それに間に合うよう是非とも取り急いで茶室|成就《しあげ》よ待合の庇廂《ひさし》繕えよ、夜半《よわ》のむら時雨《しぐれ》も一服やりながらでのうては面白く窓|撲《う》つ音を聞きがたしとの贅沢《ぜいたく》いうて、木枯《こがらし》凄《すさ》まじく鐘の音《ね》氷るようなって来る辛き冬をば愉快《こころよ》いものかなんぞに心得らるれど、その茶室の床板《とこいた》削りに鉋《かんな》礪《と》ぐ手の冷えわたり、その庇廂の大和《やまと》がき結いに吹きさらされて疝癪《せんしゃく》も起すことある職人|風情《ふぜい》は、どれほどの悪い業《ごう》を前の世になしおきて、同じ時候に他《ひと》とは違い悩め困《くる》しませらるるものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才に疎《うと》く心好き吾夫《うちのひと》、腕は源太親方さえ去年いろいろ世話して下されし節《おり》に、立派なものじゃと賞《ほ》められしほど確実《たしか》なれど、寛濶《おうよう》の気質《きだて》ゆえに仕事も取り脱《はぐ》りがちで、好いことはいつも他《ひと》に奪《と》られ年中嬉しからぬ生活《くらし》かたに日を送り月を迎うる味気なさ、膝頭《ひざがしら》の抜けたを辛くも埋め綴《つづ》[#ルビの「つづ」は底本では「つつ」]った股引《ももひき》ばかりわが夫にはかせおくこと、婦女《おんな》の身としては他人《よそ》の見る眼も羞ずかしけ
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