ろへ襖《ふすま》の外から、お伝さんと名を呼んでお連れ様と知らすれば、立ち上って唐紙明けにかかりながらちょっと後ろ向いて人の顔へ異《おつ》に眼をくれ無言で笑うは、お嬉しかろと調戯《からか》って焦《じ》らして底悦喜《そこえっき》さする冗談なれど、源太はかえって心《しん》からおかしく思うとも知らずにお伝はすいと明くれば、のろりと入り来る客は色ある新造《しんぞ》どころか香も艶もなき無骨男、ぼうぼう頭髪《あたま》のごりごり腮髯《ひげ》、面《かお》は汚《よご》れて衣服《きもの》は垢《あか》づき破れたる見るから厭気のぞっとたつほどな様子に、さすがあきれて挨拶《あいさつ》さえどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]せしまま急には出ず。
源太は笑みを含みながら、さあ十兵衛ここへ来てくれ、関《かま》うことはない大胡坐《おおあぐら》で楽にいてくれ、とおずおずし居るを無理に坐に居《す》え、やがて膳部も具備《そなわ》りし後、さてあらためて飲み干したる酒盃《さかずき》とって源太は擬《さ》し、沈黙《だんまり》で居る十兵衛に対《むか》い、十兵衛、先刻《さっき》に富松《とみまつ》をわざわざ遣《や》ってこんなところに来てもらったは、何でもない、実は仲直りしてもらいたくてだ、どうか汝《きさま》とわっさり飲んで互いの胸を和熟させ、過日《こないだ》の夜の我《おれ》が云うたあの云い過ぎも忘れてもらいたいとおもうからのこと、聞いてくれこういうわけだ、過日の夜は実は我もあまり汝をわからぬ奴と一途《いちず》に思って腹も立った、恥かしいが肝癪《かんしゃく》も起し業《ごう》も沸《にや》し汝の頭を打砕《ぶっか》いてやりたいほどにまでも思うたが、しかし幸福《しあわせ》に源太の頭が悪玉にばかりは乗っ取られず、清吉めが家へ来て酔った揚句に云いちらした無茶苦茶を、ああ了見の小《ちさ》い奴はつまらぬことを理屈らしく恥かしくもなく云うものだと、聞いているさえおかしくて堪《たま》らなさにふとそう思ったその途端、その夜汝の家で陳《なら》べ立って来た我の云い草に気がついて見れば清吉が言葉と似たり寄ったり、ええ間違った一時の腹立ちに捲《ま》き込まれたか残念、源太男が廃《すた》る、意地が立たぬ、上人の蔑視《さげすみ》も恐ろしい、十兵衛が何もかも捨てて辞退するものを斜《はす》に取って逆意地《さかいじ》たてれば大間違い、とは思ってもあまり汝のわからな過
前へ
次へ
全72ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング