脱がせ、立ちながら腮《あご》に手伝わせての袖畳み小早く室隅《すみ》の方にそのままさし置き、火鉢の傍《そば》へすぐまた戻《もど》ってたちまち鉄瓶に松虫の音《ね》を発《おこ》させ、むずと大胡坐《おおあぐら》かき込み居る男の顔をちょっと見しなに、日は暖かでも風が冷たく途中は随分|寒《ひえ》ましたろ、一瓶《ひとつ》煖酒《つけ》ましょか、と痒《かゆ》いところへよく届かす手は口をきくその間《ひま》に、がたぴしさせず膳《ぜん》ごしらえ、三輪漬は柚《ゆ》の香ゆかしく、大根卸《おろし》で食わする※[#「魚+生」、第3水準1−94−39]卵《はららご》は無造作にして気が利きたり。
 源太胸には苦慮《おもい》あれども幾らかこれに慰められて、猪口《ちょく》把《と》りさまに二三杯、後一杯を漫《ゆる》く飲んで、汝《きさま》も飲《や》れと与うれば、お吉一口、つけて、置き、焼きかけの海苔《のり》畳み折って、追っつけ三子の来そうなもの、と魚屋の名を独《ひと》り語《ごと》しつ、猪口を返して酌《しゃく》せし後、上々吉と腹に思えば動かす舌も滑《なめ》らかに、それはそうと今日の首尾は、大丈夫|此方《こち》のものとは極《き》めていても、知らせて下さらぬうちは無益《むだ》な苦労を妾《わたし》はします、お上人様は何と仰せか、またのっそりめはどうなったか、そう真面目顔でむっつりとして居られては心配で心配でなりませぬ、と云われて源太は高笑い。案じてもらうことはない、お慈悲の深い上人様はどの道|我《おれ》を好漢《いいおとこ》にして下さるのよ、ハハハ、なあお吉、弟を可愛がればいい兄きではないか、腹の饑《へ》ったものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、他《ひと》の怖《こわ》いことは一厘ないが強いばかりが男児《おとこ》ではないなあ、ハハハ、じっと堪忍《がまん》して無理に弱くなるのも男児だ、ああ立派な男児だ、五重塔は名誉の工事《しごと》、ただ我《おれ》一人でものの見事に千年|壊《こわ》れぬ名物を万人の眼に残したいが、他の手も知恵も寸分交ぜず川越の源太が手腕《うで》だけで遺《のこ》したいが、ああ癇癪《かんしゃく》を堪忍するのが、ええ、男児だ、男児だ、なるほどいい男児だ、上人様に虚言《うそ》はない、せっかく望みをかけた工事を半分他にくれるのはつくづく忌々《いまいま》しけれど、ああ、辛いが、ええ兄きだ、ハハハ
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