と駄力《だぢから》ばかりは近江《おうみ》のお兼《かね》、顔は子供の福笑戯《ふくわらい》に眼をつけ歪《ゆが》めた多福面《おかめ》のごとき房州出らしき下婢《おさん》の憤怒、拳《こぶし》を挙げて丁と打ち猿臂《えんぴ》を伸ばして突き飛ばせば、十兵衛|堪《たま》らず汚塵《ほこり》に塗《まみ》れ、はいはい、狐に誑《つま》まれました御免なされ、と云いながら悪口雑言聞き捨てに痛さを忍びて逃げ走り、ようやくわが家に帰りつけば、おおお帰りか、遅いのでどういうことかと案じていました、まあ塵埃《ほこり》まぶれになってどうなされました、と払いにかかるを、構うなと一言、気のなさそうな声で打ち消す。その顔を覗き込む女房《にょうぼ》の真実心配そうなを見て、何か知らず無性に悲しくなってじっと湿《うる》みのさしくる眼《まなこ》、自分で自分を叱るように、ええと図らず声を出し、煙草を捻《ひね》って何気なくもてなすことはもてなすものの言葉もなし。平時《つね》に変れる状態《ありさま》を大方それと推察《すい》してさて慰むる便《すべ》もなく、問うてよきやら問わぬがよきやら心にかかる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつつ、その一本は杉箸《すぎばし》で辛くも用を足す火箸に挾んで添える消炭の、あわれ甲斐なき火力《ちから》を頼り土瓶《どびん》の茶をば温《ぬく》むるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰って来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見てくれ、とさも勇ましく障子を明けて褒《ほ》められたさが一杯に罪なくにこりと笑いながら、指さし示す塔の模形《まねかた》。母は襦袢《じゅばん》の袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衛涙に浮くばかりの円《つぶら》の眼《まなこ》を剥《む》き出《いだ》し、まじろぎもせでぐいと睨《ね》めしが、おおでかしたでかした、よくできた、褒美《ほうび》をやろう、ハッハハハと咽《むせ》び笑いの声高く屋の棟《むね》にまで響かせしが、そのまま頭《こうべ》を天に対《むか》わし、ああ、弟とは辛いなあ。
其十一
格子《こうし》開くる響き爽《さわ》やかなること常のごとく、お吉、今帰った、と元気よげに上り来たる夫の声を聞くより、心配を輪に吹き吹き吸うていし煙草管《きせる》を邪見至極に抛《ほう》り出して忙わしく立ち迎え、大層遅かったではないか、と云いつつ背面《うしろ》へ廻って羽織を
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