《たい》して意欲の火炎《ほのお》を胸に揚げらるることもなく、涅槃《ねはん》の真を会《え》して執着《しゅうじゃく》の彩色《いろ》に心を染まさるることもなければ、堂塔を興《おこ》し伽藍《がらん》を立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕い風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、それらのものが雨露|凌《しの》がん便宜《たより》も旧《もと》のままにてはなくなりしまま、なお少し堂の広くもあれかしなんど独語《つぶや》かれしが根となりて、道徳高き上人の新たに規模を大きゅうして寺を建てんと云いたまうぞと、このこと八方に伝播《ひろま》れば、中には徒弟の怜悧《りこう》なるがみずから奮って四方に馳《は》せ感応寺建立に寄附を勧めて行《ある》くもあり、働き顔に上人の高徳を演《の》べ説き聞かし富豪を慫慂《すす》めて喜捨せしむる信徒もあり、さなきだに平素《ひごろ》より随喜|渇仰《かつごう》の思いを運べるもの雲霞のごときにこの勢いをもってしたれば、上諸侯より下町人まで先を争い財を投じて、我一番に福田《ふくでん》へ種子を投じて後の世を安楽《やす》くせんと、富者は黄金白銀を貧者は百銅二百銅を分に応じて寄進せしにぞ、百川海に入るごとく瞬《またた》く間《ひま》に金銭の驚かるるほど集まりけるが、それより世才に長《た》けたるものの世話人となり用人となり、万事万端|執《と》り行うてやがて立派に成就しけるとは、聞いてさえ小気味のよき話なり。
 しかるに悉皆《しっかい》成就の暁、用人頭の為右衛門普請諸入用諸雑費一切しめくくり、手脱《てぬか》ることなく決算したるになお大金の剰《あま》れるあり。これをばいかになすべきと役僧の円道《えんどう》もろとも、髪ある頭に髪なき頭突き合わせて相談したれど別に殊勝なる分別も出でず、田地を買わんか畠《はた》買わんか、田も畠も余るほど寄附のあれば今さらまたこの浄財をそのようなことに費すにも及ばじと思案にあまして、面倒なりよきに計らえと皺枯《しわが》れたる御声にて云いたまわんは知れてあれど、恐る恐る円道ある時、思《おぼ》さるる用途《みち》もやと伺いしに、塔を建てよとただ一言云われしぎり振り向きもしたまわず、鼈甲縁《べっこうぶち》の大きなる眼鏡《めがね》の中《うち》より微《かす》かなる眼の光りを放たれて、何の経やら論やらを黙々と読み続けられけるが、いよいよ塔の建つに定まって例の源太に、積り書|出《
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