れど、何にもかも貧がさする不如意に是非のなく、いま縫う猪之《いの》が綿入れも洗い曝《ざら》した松坂縞《まつざかじま》、丹誠一つで着させても着させ栄《ば》えなきばかりでなく見ともないほど針目がち、それを先刻《さっき》は頑是《がんぜ》ない幼な心といいながら、母様|其衣《それ》は誰がのじゃ、小さいからは我《おれ》の衣服《べべ》か、嬉しいのうと悦《よろこ》んでそのまま戸外《おもて》へ駈け出《いだ》し、珍らしゅう暖かい天気に浮かれて小竿《こざお》持ち、空に飛び交う赤蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《あかとんぼ》を撲《はた》いて取ろうとどこの町まで行ったやら、ああ考え込めば裁縫《しごと》も厭気になって来る、せめて腕の半分も吾夫の気心が働いてくれたならばこうも貧乏はしまいに、技倆《わざ》はあっても宝の持ち腐れの俗諺《たとえ》の通り、いつその手腕《うで》の顕《あら》われて万人の眼に止まるということの目的《あて》もない、たたき大工|穴鑿《あなほ》り大工、のっそり[#「のっそり」に傍点]という忌々《いまいま》しい諢名《あだな》さえ負わせられて同業中《なかまうち》にも軽《かろ》しめらるる歯痒《はがゆ》さ恨めしさ、蔭《かげ》でやきもきと妾《わたし》が思うには似ず平気なが憎らしいほどなりしが、今度はまたどうしたことか感応寺に五重塔の建つということ聞くや否や、急にむらむらとその仕事を是非する気になって、恩のある親方様が望まるるをも関わず胴欲に、このような身代の身に引き受きょうとは、ちとえら過ぎると連れ添う妾《わたし》でさえ思うものを、他人はなんと噂《うわ》さするであろう、ましてや親方様は定めし憎いのっそりめと怒ってござろう、お吉様はなおさら義理知らずの奴めと恨んでござろう、今日は大抵どちらにか任すと一言上人様のお定《き》めなさるはずとて、今朝出て行かれしがまだ帰られず、どうか今度の仕事だけはあれほど吾夫は望んで居らるるとも此方《こち》は分に応ぜず、親方には義理もありかたがた親方の方に上人様の任さるればよいと思うような気持もするし、また親方様の大気にて別段怒りもなさらずば、吾夫にさせて見事成就させたいような気持もする、ええ気の揉《も》める、どうなることか、とても良人《うち》にはお任せなさるまいがもしもいよいよ吾夫のすることになったら、どのようにまあ親方様お吉様の腹立てらるるか知れぬ、
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