して衣服をあらため、感応寺に行き上人に見《まみ》えて昨夜の始終をば隠すことなく物語りし末、一旦は私も余り解らぬ十兵衞の答に腹を立てしものゝ帰つてよく/\考ふれば、仮令ば私一人して立派に塔は建つるにせよ、それでは折角御諭しを受けた甲斐無く源太がまた我慾にばかり強いやうで男児《をとこ》らしうも無い話し、といふて十兵衞は十兵衞の思わくを滅多に捨はすまじき様子、彼も全く自己《おのれ》を押へて譲れば源太も自己を押へて彼に仕事をさせ下されと譲らねばならぬ義理人情、いろ/\愚昧《おろか》な考を使つて漸く案じ出したことにも十兵衞が乗らねば仕方なく、それを怒つても恨むでも是非の無い訳、既《はや》此上には変つた分別も私には出ませぬ、唯願ふはお上人様、仮令ば十兵衞一人に仰せつけられますればとて私かならず何とも思ひますまいほどに、十兵衞になり私になり二人共※[#二の字点、1−2−22]になり何様《どう》とも仰せつけられて下さりませ、御口づからの事なれば十兵衞も私も互に争ふ心は捨て居りまするほどに露さら故障はござりませぬ、我等二人の相談には余つて願ひにまゐりました、と実意を面に現しつゝ願へば上人ほく/\笑はれ、左様ぢやろ左様ぢやろ、流石に汝《そなた》も見上げた男ぢや、好い/\、其心掛一つで既う生雲塔見事に建てたより立派に汝はなつて居る、十兵衞も先刻《さつき》に来て同じ事を云ふて帰つたは、彼も可愛い男ではないか、のう源太、可愛がつて遣れ可愛がつて遣れ、と心あり気に云はるゝ言葉を源太早くも合点して、ゑゝ可愛がつて遣りますとも、といと清《すゞ》しげに答れば、上人満面皺にして悦び玉ひつ、好いは好いは、嗚呼気味のよい男児ぢやな、と真から底から褒美《ほめ》られて、勿体なさはありながら源太おもはず頭をあげ、お蔭で男児になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き。既此時に十兵衞が仕事に助力せん心の、世に美しくも湧たるなるべし。
其二十
十兵衞感応寺にいたりて朗圓上人に見《まみ》え、涙ながらに辞退の旨云ふて帰りし其日の味気無さ、煙草のむだけの気も動かすに力無く、茫然《ぼんやり》としてつく/″\我が身の薄命《ふしあはせ》、浮世の渡りぐるしき事など思ひ廻《めぐら》せば思ひ廻すほど嬉しからず、時刻になりて食ふ飯の味が今更|異《かは》れるではなけれど、箸持つ手さへ躊躇《たゆた》ひ勝にて舌が美味《うま》うは受けとらぬに、平常《つね》は六碗七碗を快う喫《く》ひしも僅に一碗二碗で終へ、茶ばかり却つて多く飲むも、心に不悦《まづさ》の有る人の免れ難き慣例《ならひ》なり。
主人《あるじ》が浮かねば女房も、何の罪なき頑要《やんちや》ざかりの猪之まで自然《おのづ》と浮き立たず、淋しき貧家のいとゞ淋しく、希望《のぞみ》も無ければ快楽《たのしみ》も一点あらで日を暮らし、暖味のない夢に物寂た夜を明かしけるが、お浪|暁天《あかつき》の鐘に眼覚めて猪之と一所に寐たる床より密《そつ》と出るも、朝風の寒いに火の無い中から起すまじ、も少し睡《ね》させて置かうとの慈《やさ》しき親の心なるに、何も彼も知らいでたわい無く寐て居し平生《いつも》とは違ひ、如何せしことやら忽ち飛び起き、襦袢一つで夜具の上跳ね廻り跳ね廻り、厭ぢやい厭ぢやい、父様を打つちや厭ぢやい、と蕨《わらび》のやうな手を眼にあてゝ何かは知らず泣き出せば、ゑゝこれ猪之は何したものぞ、と吃驚しながら抱き止むるに抱かれながらも猶泣き止まず。誰も父様を打ちは仕ませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寐て居らるゝ、と顔を押向け知らすれば不思議さうに覗き込で、漸く安心しは仕てもまだ疑惑《うたがひ》の晴れぬ様子。
猪之や何にも有りはし無いは、夢を見たのぢや、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床に這入つて寐て居るがよい、と引き倒すやうにして横にならせ、掻巻かけて隙間無きやう上から押しつけ遣る母の顔を見ながら眼をぱつちり、あゝ怖かつた、今|他所《よそ》の怖い人が。おゝおゝ、如何か仕ましたか。大きな、大きな鉄槌《げんのう》で、黙つて坐つて居る父様の、頭を打つて幾度《いくつ》も打つて、頭が半分|砕《こは》れたので坊は大変吃驚した。ゑゝ鶴亀※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]、厭なこと、延喜《えんぎ》でも無いことを云ふ、と眉を皺むる折も折、戸外《おもて》を通る納豆売りの戦《ふる》へ声に覚えある奴が、ちェッ忌※[#二の字点、1−2−22]しい草鞋が切れた、と打独語《うちつぶや》きて行き過ぐるに女房ます/\気色を悪《あし》くし、台所に出て釜の下を焚きつくれば思ふ如く燃えざる薪《まき》も腹立しく、引窓の滑よく明かぬも今更のやうに焦れつたく、嗚呼何となく厭な日と思ふも心からぞとは知りながら、猶気になる事のみ気にすればにや多けれど、また云ひ出さば笑はれむと自分で呵《しか》つて平日《いつも》よりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、溌※[#二の字点、1−2−22]《いき/\》として夫をあしらひ子をあしらへど、根が態とせし偽飾《いつはり》なれば却つて笑ひの尻声が憂愁《うれひ》の響きを遺して去る光景《ありさま》の悲しげなるところへ、十兵衞殿お宅か、と押柄《あふへい》に大人びた口きゝながら這入り来る小坊主、高慢にちよこんと上り込み、御用あるにつき直と来られべしと前後《あとさき》無しの棒口上。
お浪も不審、十兵衞も分らぬことに思へども辞《いな》みもならねば、既《はや》感応寺の門くゞるさへ無益《むやく》しくは考へつゝも、何御用ぞと行つて問へば、天地顛倒こりや何《どう》ぢや、夢か現か真実か、圓道右に爲右衞門左に朗圓上人|中央《まんなか》に坐したまふて、圓道言葉おごそかに、此度|建立《こんりふ》なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべき筈のところ、方丈思しめし寄らるゝことあり格別の御詮議例外の御慈悲をもつて、十兵衞其方に確《しか》と御任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早※[#二の字点、1−2−22]ありがたく御受申せ、と云ひ渡さるゝそれさへあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衞よ、思ふ存分|仕遂《しと》げて見い、好う仕上らば嬉しいぞよ、と荷担《になふ》に余る冥加の御言葉。のつそりハッと俯伏せしまゝ五体を濤《なみ》と動《ゆる》がして、十兵衞めが生命はさ、さ、さし出しまする、と云ひし限《ぎ》り喉《のど》塞《ふさ》がりて言語絶え、岑閑《しんかん》とせし広座敷に何をか語る呼吸の響き幽《かすか》にしてまた人の耳に徹しぬ。
其二十一
紅蓮白蓮の香《にほひ》ゆかしく衣袂《たもと》に裾に薫り来て、浮葉に露の玉|動《ゆら》ぎ立葉に風の軟《そよ》吹《ふ》ける面白の夏の眺望《ながめ》は、赤蜻蛉|菱藻《ひしも》を嬲《なぶ》り初霜向ふが岡の樹梢《こずゑ》を染めてより全然《さらり》と無くなつたれど、赭色《たいしや》になりて荷《はす》の茎ばかり情無う立てる間に、世を忍び気《げ》の白鷺が徐※[#二の字点、1−2−22]《そろり》と歩む姿もをかしく、紺青色に暮れて行く天《そら》に漸く輝《ひか》り出す星を脊中に擦つて飛ぶ雁の、鳴き渡る音も趣味《おもむき》ある不忍の池の景色を下物《さかな》の外の下物にして、客に酒をば亀の子ほど飲まする蓬莱屋の裏二階に、気持の好ささうな顔して欣然と人を待つ男一人。唐桟《たうざん》揃ひの淡泊《あつさり》づくりに住吉張の銀煙管おとなしきは、職人らしき侠気《きほひ》の風の言語《ものいひ》挙動《そぶり》に見えながら毫末《すこし》も下卑《げび》ぬ上品|質《だち》、いづれ親方※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と多くのものに立らるゝ棟梁株とは、予てから知り居る馴染のお傳といふ女が、嘸《さぞ》お待ち遠でござりませう、と膳を置つゝ云ふ世辞を、待つ退屈さに捕《つかま》へて、待遠で/\堪りきれぬ、ほんとに人の気も知らないで何をして居るであらう、と云へば、それでもお化粧《しまひ》に手間の取れまするが無理は無い筈、と云ひさしてホヽと笑ふ慣れきつた返しの太刀筋。アハヽヽそれも道理《もつとも》ぢや、今に来たらば能く見て呉れ、まあ恐らく此地辺《こゝら》に類は無らう、といふものだ。阿呀《おや》恐ろしい、何を散財《おご》つて下さります、而《そ》して親方、といふものは御師匠さまですか。いゝや。娘さんですか。いゝや。後家様。いゝや。お婆さんですか。馬鹿を云へ可愛想に。では赤ん坊。此奴《こいつ》め人をからかふな、ハヽハヽヽ。ホヽホヽヽと下らなく笑ふところへ襖の外から、お傳さんと名を呼んで御連様と知らすれば、立上つて唐紙明けにかゝりながら一寸後向いて人の顔へ異《おつ》に眼を呉れ無言で笑ふは、御嬉しかろと調戯《からか》つて焦らして底悦喜《そこえつき》さする冗談なれど、源太は却つて心《しん》から可笑《をかし》く思ふとも知らずにお傳はすいと明くれば、のろりと入り来る客は色ある新造どころか香も艶もなき無骨男、ぼう/\頭髪《あたま》のごり/\腮髯《ひげ》、面《かほ》は汚れて衣服《きもの》は垢づき破れたる見るから厭気のぞつとたつ程な様子に、流石呆れて挨拶さへどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]せしまゝ急には出ず。
源太は笑《ゑみ》を含みながら、さあ十兵衞此所へ来て呉れ、関ふことは無い大胡坐《おほあぐら》で楽に居て呉れ、とおづ/\し居るを無理に坐に居《す》ゑ、頓《やが》て膳部も具備《そなは》りし後、さてあらためて飲み干したる酒盃とつて源太は擬《さ》し、沈黙《だんまり》で居る十兵衞に対ひ、十兵衞、先刻に富松を態※[#二の字点、1−2−22]遣つて此様《こん》な所に来て貰つたは、何でも無い、実は仲直り仕て貰ひたくてだ、何か汝とわつさり飲んで互ひの胸を和熟させ、過日《こなひだ》の夜の我が云ふた彼云ひ過ぎも忘れて貰ひたいとおもふからの事、聞て呉れ斯様いふ訳だ、過日の夜は実は我も余り汝を解らぬ奴と一途に思つて腹も立つた、恥しいが肝癪も起し業も沸《にや》し汝の頭を打砕《ぶつか》いて遣りたいほどにまでも思ふたが、然し幸福《しあはせ》に源太の頭が悪玉にばかりは乗取られず、清吉めが家へ来て酔つた揚句に云ひちらした無茶苦茶を、嗚呼了見の小い奴は詰らぬ事を理屈らしく恥かしくも無く云ふものだと、聞て居るさへ可笑くて堪らなさに不図左様思つた其途端、其夜汝の家で陳《なら》べ立つて来た我の云ひ草に気が付いて見れば清吉が言葉と似たり寄つたり、ゑゝ間違つた一時の腹立に捲き込まれたか残念、源太男が廃《すた》る、意地が立たぬ、上人の蔑視《さげすみ》も恐ろしい、十兵衞が何も彼も捨て辞退するものを斜《はす》に取つて逆意地たてれば大間違ひ、とは思つても余り汝の解らな過ぎるが腹立しく、四方八方何所から何所まで考へて、此所を推せば其所に襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひずみ》が出る、彼点《あすこ》を立てれば此点《こゝ》に無理があると、まあ我の智慧分別ありたけ尽して我の為ばかり籌《はか》るでは無く云ふたことを、無下《むげ》に云ひ消されたが忌※[#二の字点、1−2−22]しくて忌※[#二の字点、1−2−22]しくて随分|堪忍《がまん》も仕かねたが、扨いよ/\了見を定めて上人様の御眼にかゝり所存を申し上げて見れば、好い/\と仰せられた唯の一言に雲霧《もや/\》は既《もう》無くなつて、清《すゞ》しい風が大空を吹いて居るやうな心持になつたは、昨日はまた上人様から熊※[#二の字点、1−2−22]の御招で、行つて見たれば我を御賞美の御言葉数※[#二の字点、1−2−22]の其上、いよ/\十兵衞に普請一切申しつけたが蔭になつて助けてやれ、皆|汝《そなた》の善根福種になるのぢや、十兵衞が手には職人もあるまい、彼がいよ/\取掛る日には何人《いくら》も傭ふ其中に汝が手下の者も交らう、必ず猜忌邪曲《そねみひがみ》など起さぬやうに其等には汝から能く云ひ含めて遣るがよいとの細い御諭し、何から何まで見透しで御慈悲深い上人様のありがたさにつく/″\我折つて帰つて来たが、十兵衞、過日《こな
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