汝が手腕の有りながら不幸《ふしあはせ》で居るといふも知つて居る、汝が平素《ふだん》薄命《ふしあはせ》を口へこそ出さね、腹の底では何《ど》の位泣て居るといふも知つて居る、我を汝の身にしては堪忍《がまん》の出来ぬほど悲い一生といふも知つて居る、夫故にこそ去年一昨年何にもならぬことではあるが、まあ出来るだけの世話は為たつもり、然し恩に被せるとおもふて呉れるな、上人様だとて汝の清潔《きれい》な腹の中を御洞察《おみとほし》になつたればこそ、汝の薄命《ふしあはせ》を気の毒とおもはれたればこそ今日のやうな御諭し、我も汝が慾かなんぞで対岸《むかう》にまはる奴ならば、我《ひと》の仕事に邪魔を入れる猪口才な死節野郎と一釿《ひとてうな》に脳天|打欠《ぶつか》かずには置かぬが、つく/″\汝の身を察すれば寧《いつそ》仕事も呉れたいやうな気のするほど、といふて我も慾は捨て断れぬ、仕事は真実何あつても為たいは、そこで十兵衞、聞ても貰ひにくゝ云ふても退けにくい相談ぢやが、まあ如是ぢや、堪忍《がまん》して承知して呉れ、五重塔は二人で建てう、我を主にして汝不足でもあらうが副《そへ》になつて力を仮してはくれまいか、不足ではあらうが、まあ厭でもあらうが源太が頼む、聴ては呉れまいか、頼む/\、頼むのぢや、黙つて居るのは聴て呉れぬか、お浪さんも我《わし》の云ふことの了つたなら何卒口を副て聴て貰つては下さらぬか、と脆くも涙になりゐる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ゑゝありがたうござりまする、何所に此様な御親切の相談かけて下さる方のまた有らうか、何故御礼をば云はれぬか、と左の袖は露時雨、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動しつ掻口説けど、先刻より無言の仏となりし十兵衞何とも猶言はず、再度三度かきくどけど黙※[#二の字点、1−2−22]《むつくり》として猶言はざりしが、やがて垂れたる首《かうべ》を擡げ、何《どう》も十兵衞それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸をついて驚く女房。なんと、と一声烈しく鋭く、頸首《くびぼね》反《そ》らす一二寸、眼に角たてゝのつそりを驀向《まつかう》よりして瞰下す源太。

       其十四

 人情の花も失《なく》さず義理の幹も確然《しつかり》立てゝ、普通《なみ》のものには出来ざるべき親切の相談を、一方ならぬ実意《じつ》の有ればこそ源太の懸けて呉れしに、如何に伐つて抛げ出したやうな性質《もちまへ》が為する返答なればとて、十兵衞厭でござりまするとは余りなる挨拶、他《ひと》の情愛《なさけ》の全で了らぬ土人形でも斯は云ふまじきを、さりとては恨めしいほど没義道な、口惜いほど無分別な、如何すれば其様に無茶なる夫の了見と、お浪は呆れもし驚きもし我身の急に絞木にかけて絞《しめ》らるゝ如き心地のして、思はず知らず夫にすり寄り、それはまあ何といふこと、親方様が彼程に彼方此方のためを計つて、見るかげもない此方連《このはうづれ》、云はゞ一[#(ト)]足に蹴落して御仕舞ひなさるゝことも為さらば成《でき》る此方連に、大抵ではない御情をかけて下され、御自分一人で為さりたい仕事をも分与《わけ》て遣らう半口乗せて呉れうと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかも御招喚《およびつけ》にでもなつてでのことか、坐蒲団さへあげることの成らぬ此様なところへ態※[#二の字点、1−2−22]|御来臨《おいで》になつての御話し、それを無にして勿体ない、十兵衞厭でござりまするとは冥利の尽きた我儘勝手、親方様の御親切の分らぬ筈は無からうに胴慾なも無遠慮なも大方|程度《ほどあひ》のあつたもの、これ此妾の今着て居るのも去年の冬の取り付きに袷姿の寒げなを気の毒がられてお吉様の、縫直《なほ》して着よと下されたのとは汝の眼には暎《うつ》らぬか、一方ならぬ御恩を受けて居ながら親方様の対岸《むかう》へ廻るさへあるに、それを小癪なとも恩知らずなとも仰やらず、何処までも弱い者を愛護《かば》ふて下さる御仁慈《おなさけ》深い御分別にも頼《よ》り縋らいで一概に厭ぢやとは、仮令ば真底から厭にせよ記臆《ものおぼえ》のある人間《ひと》の口から出せた言葉でござりまするか、親方様の手前お吉様の所思《おもはく》をも能く篤《とつく》りと考へて見て下され、妾はもはや是から先何の顔さげて厚ヶ間敷お吉様の御眼にかゝることの成るものぞ、親方様は御胸の広うて、あゝ十兵衞夫婦は訳の分らぬ愚者なりや是も非もないと、其儘何とも思しめされず唯打捨て下さるか知らねど、世間は汝《おまへ》を何と云はう、恩知らずめ義理知らずめ、人情解せぬ畜生め、彼奴《あれめ》は犬ぢや烏ぢやと万人の指甲《つめ》に弾かれものとなるは必定、犬や烏と身をなして仕事を為たとて何の功名《てがら》、慾をかわくな齷齪するなと常※[#二の字点、1−2−22]妾に諭された自分の言葉に対しても恥かしうはおもはれぬか、何卒|柔順《すなほ》に親方様の御異見について下さりませ、天に聳ゆる生雲塔は誰※[#二の字点、1−2−22]二人で作つたと、親方様と諸共に肩を並べて世に称《うた》はるれば、汝の苦労の甲斐も立ち親方様の有難い御芳志《おこゝろざし》も知るゝ道理、妾も何の様に嬉しかろか喜ばしかろか、若し左様なれば不足といふは薬にしたくも無い筈なるに、汝は天魔に魅られて其をまだ/\不足ぢやとおもはるゝのか、嗚呼情無い、妾が云はずと知れてゐる汝《おまへ》自身の身の程を、身の分際を忘れてか、と泣声になり掻口説く女房の頭は低く垂れて、髷にさゝれし縫針の孔《めど》が啣《くは》へし一条《ひとすぢ》の糸ゆら/\と振ふにも、千※[#二の字点、1−2−22]に砕くる心の態の知られていとゞ可憫《いぢら》しきに、眼を瞑ぎ居し十兵衞は、其時例の濁声《だみごゑ》出し、喧しいはお浪、黙つて居よ、我の話しの邪魔になる、親方様聞て下され。

       其十五

 思ひの中に激すればや、じた/\と慄《ふる》ひ出す膝の頭を緊乎《しつか》と寄せ合せて、其上に両手《もろて》突張り、身を固くして十兵衞は、情無い親方様、二人で為うとは情無い、十兵衞に半分仕事を譲つて下されうとは御慈悲のやうで情無い、厭でござります、厭でござります、塔の建てたいは山※[#二の字点、1−2−22]でも既《もう》十兵衞は断念《あきらめ》て居りまする、御上人様の御諭《おさとし》を聞いてからの帰り道すつぱり思ひあきらめました、身の程にも無い考を持つたが間違ひ、嗚呼私が馬鹿でござりました、のつそりは何処迄ものつそりで馬鹿にさへなつて居れば其で可い訳、溝板でもたゝいて一生を終りませう、親方様|堪忍《かに》して下され我《わたし》が悪い、塔を建てうとは既《もう》申しませぬ、見ず知らずの他の人ではなし御恩になつた親方様の、一人で立派に建てらるゝを余所《よそ》ながら視て喜びませう、と元気無げに云ひ出づるを走り気の源太|悠※[#二の字点、1−2−22]《ゆるり》とは聴て居ず、ずいと身を進て、馬鹿を云へ十兵衞、余り道理が分らな過ぎる、上人様の御諭は汝《きさま》一人に聴けといふて為《なさ》れたではない我が耳にも入れられたは、汝の腹でも聞たらば我の胸で受取つた、汝一人に重石《おもし》を背負つて左様沈まれて仕舞ふては源太が男になれるかやい、詰らぬ思案に身を退て馬鹿にさへなつて居れば可いとは、分別が摯実《くすみ》過ぎて至当《もつとも》とは云はれまいぞ、応左様ならば我が為ると得たり賢《かしこ》で引受けては、上人様にも恥かしく第一源太が折角磨いた侠気《をとこ》も其所で廃つて仕舞ふし、汝は固《もとよ》り虻蜂取らず、智慧の無いにも程のあるもの、そしては二人が何可からう、さあ其故に美しく二人で仕事を為うといふに、少しは気まづいところが有つてもそれはお互ひ、汝が不足な程に此方にも面白くないのあるは知れきつた事なれば、双方|忍耐仕交《がまんしあふ》として忍耐の出来ぬ訳はない筈、何もわざ/\骨を折つて汝が馬鹿になつて仕舞ひ、幾日の心配を煙と消《きや》し天晴な手腕《うで》を寝せ殺しにするにも当らない、なう十兵衞、我の云ふのが腑に落ちたら思案を飜然《がらり》と仕変へて呉れ、源太は無理は云はぬつもりだ、これさ何故黙つて居る、不足か不承知か、承知しては呉れないか、ゑゝ我の了見をまだ呑み込んでは呉れないか、十兵衞、あんまり情無いではないか、何とか云ふて呉れ、不承知か不承知か、ゑゝ情無い、黙つて居られては解らない、我の云ふのが不道理か、それとも不足で腹立てゝか、と義には強くて情には弱く意地も立つれば親切も飽くまで徹す江戸ッ子腹の、源太は柔和《やさし》く問ひかくれば、聞居るお浪は嬉しさの骨身に浸みて、親方様あゝ有り難うござりますると口には出さねど、舌よりも真実を語る涙をば溢らす眼に、返辞せぬ夫の方を気遣ひて、見れば男は露一厘身動きなさず無言にて思案の頭重く低《た》れ、ぽろり/\と膝の上に散らす涙珠《なみだ》の零《お》ちて声あり。
 源太も今は無言となり少時《しばらく》ひとり考へしが、十兵衞汝はまだ解らぬか、それとも不足とおもふのか、成程折角望んだことを二人でするは口惜かろ、然も源太を心《しん》にして副になるのは口惜かろ、ゑゝ負けてやれ斯様して遣らう、源太は副になつても可い汝を心に立てるほどに、さあ/\清く承知して二人で為うと合点せい、と己が望みは無理に折り、思ひきつてぞ云ひ放つ。とッとんでも無い親方様、仮令十兵衞気が狂へばとて何して其様は出来ますものぞ、勿体ない、と周章て云ふに、左様なら我の異見につくか、と唯一言に返されて、其は、と窮《つま》るをまた追つ掛け、汝《きさま》を心に立てやうか乃至それでも不足か、と烈しく突かれて度を失ふ傍にて女房が気もわくせき、親方様の御異見に何故まあ早く付かれぬ、と責むるが如く恨みわび、言葉そゞろに勧むれば十兵衞つひに絶体絶命、下げたる頭を徐《しづか》に上げ円《つぶら》の眼を剥き出して、一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衞心になつても副になつても、厭なりや何しても出来ませぬ、親方一人で御建なされ、私は馬鹿で終りまする、と皆まで云はせず源太は怒つて、これほど事を分けて云ふ我の親切《なさけ》を無にしても歟。唯《はい》、ありがたうはござりまするが、虚言《うそ》は申せず、厭なりや出来ませぬ。汝《おのれ》よく云つた、源太の言葉にどうでもつかぬ歟。是非ないことでござります。やあ覚えて居よ此のつそりめ、他《ひと》の情の分らぬ奴、其様の事云へた義理か、よし/\汝《おのれ》に口は利かぬ、一生|溝《どぶ》でもいぢつて暮せ、五重塔は気の毒ながら汝に指もさゝせまい、源太一人で立派に建てる、成らば手柄に批点《てん》でも打て。

       其十六

 ゑい、ありがたうござります、滅法界に酔ひました、もう飲《いけ》やせぬ、と空辞誼《そらじぎ》は五月蠅ほど仕ながら、猪口もつ手を後へは退かぬが可笑き上戸の常態《つね》、清吉既馳走酒に十分酔たれど遠慮に三|分《ぶ》の真面目をとゞめて殊勝らしく坐り込み、親方の不在《るす》に斯様|爛酔《へゞ》ては済みませぬ、姉御と対酌《さし》では夕暮を躍るやうになつてもなりませんからな、アハヽ無暗に嬉しくなつて来ました、もう行きませう、はめを外すと親方の御眼玉だ、だが然し姉御、内の親方には眼玉を貰つても私《わつち》は嬉しいとおもつて居ます、なにも姉御の前だからとて軽薄を云ふではありませぬが、真実《ほんと》に内の親方は茶袋よりもありがたいとおもつて居ます、日外《いつぞや》の凌雲院の仕事の時も鐵や慶を対《むかう》にして詰らぬことから喧嘩を初め、鐵が肩先へ大怪我をさした其後で鐵が親から泣き込まれ、嗚呼悪かつた気の毒なことをしたと後悔しても此方も貧的、何様《どう》してやるにも遣り様なく、困りきつて逃亡《かけおち》とまで思つたところを、黙つて親方から療治手当も為てやつて下された上、かけら半分叱言らしいことを私《わつち》に云はれず、たゞ物和しく、清や汝《てめへ》喧嘩は時のはづみで仕方は無いが気の毒とおもつたら謝罪《あやま》つて置け、鐵が親の気持も好かろし汝《てめへ》の寝覚
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