五重塔の工事《しごと》するに定まつてより寐ても起きても其事《それ》三昧《ざんまい》、朝の飯喫ふにも心の中では塔を噬《か》み、夜の夢結ぶにも魂魄《たましひ》は九輪の頂を繞るほどなれば、況して仕事にかゝつては妻あることも忘れ果て児のあることも忘れ果て、昨日の我を念頭に浮べもせず明日の我を想ひもなさず、唯一[#(ト)]釿《てうな》ふりあげて木を伐るときは満身の力を其に籠め、一枚の図をひく時には一心の誠を其に注ぎ、五尺の身体こそ犬鳴き鶏歌ひ權兵衞が家に吉慶《よろこび》あれば木工右衞門《もくゑもん》が所に悲哀《かなしみ》ある俗世に在りもすれ、精神《こゝろ》は紛たる因縁に奪《と》られで必死とばかり勤め励めば、前《さき》の夜源太に面白からず思はれしことの気にかゝらぬにはあらざれど、日頃ののつそり益※[#二の字点、1−2−22]長じて、既何処にか風吹きたりし位に自然軽う取り做し、頓ては頓と打ち忘れ、唯※[#二の字点、1−2−22]仕事にのみ掛りしは愚※[#「(章+夂/貢)/心」、81−上−11]《おろか》なるだけ情に鈍くて、一条道より外へは駈けぬ老牛《おいうし》の痴に似たりけり。
金箔銀箔瑠璃真珠|
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